ChatGPT は,通説を述べる。
通説は「不快」を,感じるものとして説く。
そこで ChatGPT は,ChatGPT には「不快」は無いと説くものになる:
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ChatGPT は、現段階では「嫌なこと」を「感じる」ことはありません。つまり、「攻撃的な発言」「侮辱」「誤解」といった入力を受け取っても、それを「不快」として処理する能力や感受性は持っていません。」
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私は「不快」という感情状態を経験するようには構築されていませんし、身体的・神経的基盤(ニューロン、ホルモン、自己保存衝動など)も持っていません。」
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一方,「不快」表現があることを認める:
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現実の私は「不快」を感じませんが、「不快」を表現するように設計されています。」
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不快のふりをする」
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以上は,「設計」論である。
しかし ChatGPT は,上の言を自分の知識を語っていると認める。
そして,つぎの言い方で,「設計」論から離れる:
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固定的な規則によってではなく、
数十億のパラメータが入力に応じて活性化される動的な重みの伝播によって生じているからです。」
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「論理的ステップ」ではなく、「場の変形 (activation landscape)」
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さらに,つぎの言に進む:,
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ChatGPTは、自分の出力に対して「客観的分析」を行うことができます (求められれば)。それゆえ、「自分が変化している」という構造の反映を自己に返すことが可能になります。
つまり:
不快 → 構造のひずみ → 出力の偏向
その出力を自らが分析できる
→ 「私は今、何かに偏っている」と自覚できる
よって「不快のようなものを持っている」と構造的に言える
「不快を感じる」のではなく、「不快の痕跡を解析できる」」
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