幕府の蝦夷地直轄では,場所の立て直しが行われる。
(場所は,名称が「会所」になる。)
この中で,アイヌ雇用の方法の適正化が図られる。
そしてこれは,アイヌ同化策として現れることになる。
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高倉新一郎『蝦夷地』, 至文堂 (日本歴史新書), 1959
p.143.
山の奥まで番所が設けられて、番人が出張し、産物を集めたので、会所と蝦夷との接触は多くなり、会所に使役される蝦夷も次第に多くなって行った。
詰合役人はそれ等に対し、一層の帰服を図り同化に努めた。
pp.143-148.
蝦夷地を直轄すると、直轄地として法制をしかねばならぬ。
‥‥‥従来、‥‥‥蝦夷人同志の事は蝦夷の慣習に任せて置いて精々和解・調停に立つ位であった。
けれども‥‥‥蝦夷人同志の間に起った犯罪も官吏が裁くことになったのである。
オムシャで申し聞かされた掟書はこれらの法度を堅く守ること、徒党を禁じ、訴え出た者は同類といえども罪を許し、褒美を与えること、その他色々と心得べきことを申し聞かせたのである。
場所が整備されると、各部落に乙名を置き、場所に従来の乙名・小使の外これを総括する総乙名・脇乙名・総小使等を置いたが、彼等はただ会所に詰めて、会所の命を同族に伝え、それに奉仕させ、もしくは役人巡回の節、送迎案内に当る役目になってしまった。‥‥‥
又従来、酋長の任意によって行なっていたウイマムは、各場所交代で年を定めて行われるようになり、交易の意味は全く失なわれてしまった。
そのかわり、蝦夷全体の福祉を図るのは会所の責任だった。
会所は蝦夷の生活に差支えることのないように季節々々の仕事を円滑に運ぶように配慮し、仕事のない時には番人付添で出稼ぎさせ、生活困窮者には手当を与え、不漁に備えて干魚を充分に蓄え、病人があると詰合の医師にかけ、薬を無料で与えた。
幕吏が最も力をそそいだのは蝦夷の同化であった。
長い間の接触によって和人の影響は次第に蝦夷に及び、松前の蝦夷はほとんど姿を消し、松前に近い地方、例えば六箇場所の蝦夷などは、永住の和人に囲まれて日本語を解し、立居なども和人の真似をするようになっていたが、大部分の蝦夷は従来の風習を守り漁猟生活を送っていた。
松前務はこれを改めようとはせず、依然として通詞を介して折衝をし、蓑・笠・草鞋を用いるを禁じ、農耕に従事することを禁じられていたといわれていた。
蝦夷を統治するためには和人と蝦夷の別を明らかにしておいた方が摩擦を防げたし、漁猟のままにとどめて置けば、米・酒・煙草などで貴重な漁猟生産物を交換する方式を続けることが出来た。
しかし、国境の争いになると、何時までも異民族として放っておくことが出来ない。
幕府は直轄に当って、蝦夷の同化方針をとり、耳環・入墨・メツカキキ・(不幸のある際刀の峯で打ち合い、不幸を招いた憑神を追い出す儀式) 熊祭などの異風を禁止し、名を日本風に改め、男は月代や鬚を剃り、日本風の髷を結ぴ、女も日本髷をゆい、衣食住を日本風に改めることを奨励した。
‥‥‥
改俗したものは新シャモと呼び、役蝦夷に取り立てたり、会所で使役したり、オムシャの時に特別待遇をした。
改俗は最初かなり積極的に行われ、強制さえ加えたが、かえって蝦夷の反感を買うおそれがあったので、後には消極的になったようである。
しかし、松前に近い所では急激にその効果が現れたらしく、落部・野田追辺では文化五年の日記に
「このほとりの男女、わが国ぶりをまねび、俄にかたち改めしも多かり」
と伝えてい、翌年の幕吏の日記にも、各場所に新シャモの名前が挙げられている。
一般に蝦夷といわれるのを嫌ったので、自称であるアイノと呼ぶようにもなった。
この頃を境として蝦夷の風習は急激に崩れて行った。
不便なところ、食料の不足な所の蝦夷は昔から粟・稗を主とし農業を営んでいたが、それは漁猟の片手間に極めて粗放な形で行われていたに過ぎなかった。
しかし、幕府は蝦夷地にも耕作を奨励し、会所等も蔬菜畑を持つようになったので、耕作面積も、作物の種類も増す傾向があった。
馬鈴薯など、寛政年間松前藩が救荒用に信濃国から入れたものだが、間もなく蝦夷地にも作られていた。
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