|
高倉新一郎『蝦夷地』, 至文堂 (日本歴史新書), 1959
p.14
蝦夷ケ島に和人が居住した最初の記録は、「東鑑」に、建保四年(一二一六) 二月、強盗海賊五十余人を夷島に追放したとあるのがこれ‥‥‥
p.15
「諏訪大明神絵詞」に書かれた渡党なるものは、その名から見て又住居範囲から見て、本州から渡り住んだ者に相違なく、その後松前の記録によれば、藤原民の残党、若しくは夷島に流された強盗をこれにあてている。
|
|
|
高倉新一郎『アイヌ政策史』, 日本評論社, 1942
pp.9-11.
北海道に於ける、内地人と其先住民族たる蝦夷即ちアイヌとの交渉は必ずしも此時代に始まったのではない。
記紀に現れた大ハ洲中に越洲が挙げられてゐる事から直ちに北海道の関係を神代に遡らせる事は困難だとしても、斉明紀以後屡々現れる渡島を以て北海道に擬する事は一般の通説で、果して然りとせば斉明天皇五年 (659) 阿部臣が第二回の東北遠征に際して渡島の蝦夷を討伐し、後方羊蹄に政所を置いたと言ふ事実は、朝廷の政治的権力が当時既に北海道に迄延びた例証とする事が出来る。
而して此遠征は、日本海岸を南下して我が北方を脅かした粛慎族 (当時靺鞨) に対抗する為めに行はれたもので、渡島の占拠は対靺鞨政策の足場として行はれたものである。
故に正に、ツェッフェルの所謂「世界政策的目的達成の為に国外に有する行政地帯」に相当し、我が国の北海道に於ける植民的活動は実に此時に始まったと言ふ事が出来よう。
北海道の斯る地位は、其後も相当継続した事は、元正天皇養老四年 (720) 正月、渡島津軽津司等六人を靺鞨国に遣した事に依ても知られる。
其間朝廷は其地の原住者たる蝦夷の撫育・保護に頗るこれ努め、渡島の蝦夷も亦其恩沢に服し,概ね平穏で、屡々京師に朝貢した事は,其例平安朝初期迄の正史に少なくない。
叛乱としては清和天皇貞観17年 (875) 渡島の荒狄が水軍80艘を以て秋田飽海両郡の百姓を殺掠したと言ふ出羽国司よりの上申があるのみで,陽成天皇元慶2年 (878) 出羽の夷俘が叛いた際等は,反って朝廷に援兵を送った記録がある位である。
而して是等の政策が単なる政治的・経済的征服でなくして,原住者の文化の向上を目標とし,又其方面にも相当の成果を収めたらしい史料も挙げることが出来る。
然し乍ら、平安朝中期に至って、中央の綱紀弛緩するや、北海道の事は全く安倍氏 (安倍、阿部と書くも皆同じ) を称する豪族の手に委ねられ、其経営も亦昔日の姿を失ひ、蝦夷の京都への朝貢は其跡を絶ち、恰も外国の観を呈するに至ったのである。
此間私達は北海道の植民政策、従って原住者政策に関して語り得べき史料を殆んど持ってゐない。
其稍々詳細なるものが得られるのは松前氏独立以後の事である。
而も是は,北海道に移住土着する内地人漸く多く,独自の活動をなし得るだけの実力を備へた事を表徴するものであった。
奥羽のそれと区別した,北海道に於ける原住者政策の始期を,此時期に求めた理由は以上述べた点にある。
何時頃から内地人が北海道に移住し定着し始めたかに就いては明瞭にすべき材料は無いが、最初は漂流民が帰る途なくして止ったもの、商業・漁業等のため出稼し、後土着するに至った者、並に流刑者等が多きを占めたゐた事であらう。
然し是等は数も少なく、従って其勢力も微々たるもので、政治的には勿論、社会的にも原住者の社会に吸収せられて、其独自の意識的活動をなし得なかったものと思はれる。
即ち、移住現象はあっても、未だ植民現象はなかったものと考へられる。
後に至って、本州殊に奥羽地方の戦乱又は凶作に際し、難を逃れて移って来るもの漸く多きを加へ、その移住は意識的になって来たが、是とても、最初は、「諏訪大明神絵詞」其他に所謂渡党として、他の北海道在来の蝦夷と区別されてゐ乍ら,矢張蝦夷の一種と考えられた程度のものであった。
即ち移民たる渡党は,奥羽に於て日本の文化に浴した蝦夷であって,北海道在来の蝦夷と大差のない社会組織──原始共産社会を多く出ない──しか持って居らず,其中には少数の大和民族が居たとしても,既に蝦夷化した生活をなし,若くは蝦夷化されつゝあったものと思われる。
|
|
|