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高倉新一郎『蝦夷地』, 至文堂 (日本歴史新書), 1959
pp.73-75.
蝦夷を使うことが多くなると、場所請負人が場所に派遣する者の人数も増加して行った。
最初は、請負人の代理で場所の交易や漁業を総括する支配人の外に、蝦夷と和人との間をとりもつ通詞、書記役である帳役等が交易船に乗って現地に行き、事業に当ったが、後にはそれ等を補助し、蝦夷を監督使役する番人という役が多くなって行ったようである。
通詞はアイヌ語に通じ、蝦夷地の事情に詳しい、場所経営の中心をなすもので、主として松前城下から雇われたが、その他の者は出稼人ではあるが、年々同じ請負人に雇われる常雇で、蝦夷地の事情に通ずるに従って番人から帳役・通詞・支配人と上って行くものが多かった。
なお番人の下で、蝦夷の出来ない仕事に従事する働方と称する臨時雇があった。
これらの人々は、蝦夷地の請負場所に設けられた交易所すなわち運上屋に寝泊し、蝦夷のもたらす産物を交換し、それを荷造りすると、冬にならない内に船に積み込み、場所を引上げた。
積荷の残りがあれば、鍵を乙名にあずけて空家にするのが常だった。
最初は縄綴船一艘の荷物と乗組員、精々ニ〜三百石の荷物と十四〜五人の人をいれるに過ぎない建物であったが、荷物がふえ、ことに漁業を直営するようになると、運上屋は番人・稼方を寝泊させ、雇蝦夷を集合させるに充分な構えとなり、漁具や漁獲物・米等を入れる倉庫が設けられ、常雇の蝦夷の居家を控え、魚見櫓や小さな社などをもった小部落が発達して行った。
ここを中心として、漁獲物のある所には、番屋とか漁小屋とか呼ぶ建物が出来、その魚期には番人が蝦夷を引率して寝泊して漁業に従事し、終ると引上げた。
番屋は運上屋の出張所で、漁業の豊富な、重要な番屋になると、運上屋に劣らない施設を持っていた。
こうして働き場が出来ると、蝦夷は従来の山城を中心として作っていた独自の村落をすてて海岸の便利な場所に集まって来た。
蝦夷地に点在する要地に建てられた交易所を中心に形作られた和人の勢力範囲は、海岸沿いに数を増して線になって行き、やがて蝦夷地全体を取巻いて行く態勢を示した。
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高倉新一郎『蝦夷地』, 至文堂 (日本歴史新書), 1959
pp.141-143.
当時蝦夷の生活は次のようなものであった。
春,一月から五月頃まで、鰊・鱈・鮊等をとり、千魚又は締粕に製する。
独立して行うものもないわけではなかったが、多くの場合運上屋もしくは会所の下で働く。
三月から七月にかけて積取船が来るので荷造して積出す。
夏、五月頃から男は海鼠を引き、女は食料の草をあつめ、椎茸をとり、粟稗を蒔付け、アツシ用の木皮等を剥ぐ。
七月になり男女総出で昆布をとり終ると、男は、海上穏かな節は海鼠を突き、帆立貝を引き、時化の時は山へ入って会所用の薪を伐り出す。
女は布海苔などをとる。
昆布・煎海鼠・帆立貝・布海苔などは会所に出して日用品と交換する。
秋、女は粟稗を収穫し、アツシを織って冬仕度をする。
九月になると鮭をとる。
十勝では鰤がとれた。
冬、男は猟のために山に入る。
海岸の者はオットセイその他の海獣をとる。
一方漁船を作り、網をすいて春・夏漁の用意をする。
又榀縄をない、女はキナ [蓆]・アプスケ [簾]・アツシ等を織る。
生産の余りないものは蝦夷が銘々勝手に自分の用具でとり、自家用に供し、もしくは貯えた後は、これを交易に出した。
まとめて出すこともあれば、その時々に交換することもあった。
会所はこれに対して、従来の仕来を破ることなく、交換比率も変えなかった。
ただ、交換の標準であった米価を玄米一升五十六文と決めて、すべての比価を換算し、これを濫りにかえず、与える品物の質や最にごまかしのないように努力した。
又鉄銭を入れて通用させたが、主として和人間の支払いに利用され、蝦夷の間には普及しなかったようである。
蝦夷を保護する意味で、年中の仕事は小使を通じて会所が指図したようである。
ことに産物の乏しい季節には番人が付添って他場所に出稼ぎに行き、産物もしくは労賃を得て生計を助けた。
又飢謹に備えて、会所は一定の干魚を留保して置き、困窮の際は救済した。
鰊・鱒・鮭漁は会所が直営で行い、蝦夷はこれに雇われた。
又会所の薪出しも、報酬は与えられたが、半ば義務づけられていた。
会所・番屋の飯炊・雑役・馬引・木挽・鍛冶・船子・炭焼・渡船守等は皆蝦夷を使役し、旅人の道案内・人足等も蝦夷を使った。
山の奥まで番所が設けられて、番人が出張し、産物を集めたので、会所と蝦夷との接触は多くなり、会所に使役される蝦夷も次第に多くなって行った。
詰合役人はそれ等に対し、一層の帰服を図り同化に努めた。
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