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高倉新一郎『蝦夷地』, 至文堂 (日本歴史新書), 1959
pp.11-14
アイヌにウイマムという行事があった。
平生猟をして畜えて置いた毛皮類を携え、ウイマム=チプと呼ぶ特別飾った船を仕立て、隣国まで行き、隣国のニシパに目見えしてこれを献上し、隣国のニシパからは手篤い待遇を受け、米俵その他の珍らしい品物を得て帰郷し、郷里の者に振舞い、その尊敬を得たということは、種々の伝承に語り伝えられている。
この際、ウイマムというのは恐らく「お目見え」の転訛したもので、日本語から出たものであり、こうした行事は松前藩とアイヌの酋長との間に久しく行われ、松前藩がアイヌを統治する重要な手段となっていた。
その内容は時代によって異なるが、古い形は、アイヌの酋長が種々の土産を船に積んで松前の城下に行き丸小屋を作ってそこに荷物を陸揚して泊る。
丸小展とは数本の柱の上を結んで円錐形に立かけ、その上に蓆を巻きつけて作る速製の小屋で、アイヌが旅先で泊る場合に用いる簡単な仮屋である。
松前家ではこれを知ると、通詞を出して迎えさせ、酋長以下は礼装し、貴人を訪れる時にするように互に手をつなぎ、一列になって、通詞に導かれ藩主の前に出る (口絵参照)。
藩主も礼装し威儀を正してこれを迎え、贈物を受け、これに対して米その他アイヌの好むものを与え、酒を汲み交して別れる。
‥‥‥松前から見ると彼等に服従を図る機会であり、アイヌから見ると松前の珍物を獲得する交易手段であった。
その関係は小規開な朝貢を思わせる。
こうしたことは松前に限らず古くからあったことで、渡島の蝦夷が朝貢に来たことはしばしば歴史に見えており、その贈物が主として、アイヌがウイマムに用いたように毛皮であったであろうことは、延暦二十一年(八○二) 六月、渡島蝦夷が来朝貢献するところの雑皮を私に買取る禁制を申厳したことでも察せられる。
こうした朝貢は決して京師においてばかり行われたのではなく、例えば出羽の国府等でも行われ、朝廷の勢力がおとろえた後も、奥羽地方の豪族と蝦夷島の蝦夷の酋長との間に続けられて来たものと思われる。
‥‥‥
その関係が、足利時代の末、安東氏が南部氏に追われて対岸松前に移ると松前に移され、それが、安東氏が失地を恢復するため秋田の同族と協力して南部氏と戦っている暇に、上ノ国に力を養っていた蠣崎氏すなわち後の松前氏にその実権を奪われてしまうという結果になったものであろう。
これに似た関係は、樺太においては黒竜江口付近に住むサンタン人、千島においては北海道蝦夷と千島の蝦夷との間にもあった。
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