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最上徳内 (1808), p.534
ユウカリ、源義経の事にいたりては、殊に古調なりと見へて、甚聞得かたき所多く、聞得て事跡連續せず、また始終全く覺へたるもの既に稀なり。
しかれども大凡をつまみて取らば、ホウガンニシ(パスカ)と稱し、又ホウガンドノと稱す。
家難を避るためやらむ、のがれて此に来り、人の家に婿となりて在りしが、翁かあらざるひまをうかゝひ寶をぬすみ、舟に乗りて海に入し。
翁歸て婿が見へざるを恠(怪)しみ、追てホロベツまでいたりしが、俄に風波の興るにあひて返りしと言。
但女子うなずきて遁したる様にもきこゆれど、正しくそれともとり難し。
義経幼時といふ説あれど、ユウカリの文句それらの事をのする段を聞に及はず。
且已にホウカンと稱す。
是却て幼時にあらざる證となすべし。
津軽のほとりまで追たりしといへど 以上二事北海随筆の記、津軽にホロヘツなし。
ホロツキ (袰月) あり。
此も昔夷地の時の名なり。
これによりてホロツキ、ホロベツを混したる様にも思はる。
ホロベツ此に大川と譯す。
ホロヘツといふ所また既に多し。
しかれともイソマルケが説、北のかた海に浮みしといふによれば、ソウヤのホロベツを近しとすべし。
義経の事ユウカリの文、髣髴(彷彿)としてもとよりたしかに取べきものにあらねど、更によるへき所なきにあらざるに似たり。
故に人々好で附會の説を作。
多(く)信ずべからず。
但、東濱にてはイウブツの邊までホウカンの事を傳へ、それより北にては知らず。
西邊にてはイシカリより奥にて専らホウカンを稱し、其前にては知といへどもうときを見れば、これらにて游歴の所粗考ふベし。
上原熊次郎か夷人に事を問て的據なきことに、汝輩ものかくすべをしらぬこそ歎はしといへば、されば我々も先祖はよみかきするわざをもわきまへたれど、ホウガンどのに其巻物をとられてより初て字を作ることをしらざるもの成たりと答もの有とぞ。
棒(抱)腹に堪へさる談なれども、併ユウカリの意に符す。
ユウカリによりていふかと思へば、ユウカリたゞ寶といひて巻軸といはず。
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引用文献
- 最上徳内 (1808) :『渡島筆記』
- 高倉新一郎編『日本庶民生活史料集成 第4巻 探検・紀行・地誌 北辺篇』, 三一書房, 1969. pp.521-543
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