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高倉新一郎 (1974), pp.216-218
結婚には親と親との間に決められたいいなずけがないわけではなかったし、適齢期になると両親が心配して探して来た。
このように親まかせという場合もあったが、多くは本人同士の意志がいれられた。
娘が高齢になると両親は特別の部屋をしつらえて娘に与えた。
部屋は宝壇の反対側へ東南にむしろを吊るして作ることもあれば、その部分に差し掛けをして小さな部屋を作ることがあり、時によると、家の近くに小さな家を建ててやることもあった。
娘はそこで、食事を家族と共にして暮らすのだった。
ユーカラなどによると、そうした部屋に妻問いする青年が訪ねてくる。
娘は食事の仕たくをし、飯を盛って出し、男がこれを食べ、食べさしを女に渡す。
女がこれを受けると婚約は成立したことになる。
多くは気に入った相手が見つかると両親または伯叔父母に語り、両親が賛成ならば仲人をたて、宝器や酒などを娘の家にとどけ、火の神を祭って報告する。
そして娘をつれて夫の家に伴い、夫の家で披露宴をするのだが、夫が娘の家にしばらく滞在し、後に妻としてつれ帰る場合が多かったようである。
婚約の式は重く、両家同士というよりは、両家の火の神に誓うという形式であった。
いわゆる嫁入りはきわめて簡単で、嫁が着かえてその他を荷造りして仲人に伴われて夫の家に行き、夫の家では知らぬ顔をして部屋をくらくしている所に入って炉の火を燃すだけで、一家の人となった。
男の子は夫に、女の子は妻に属し、結婚にはそれぞれの承諾を必要とした。
女児は家事万般のことに当たったので、非常に珍重され、母は娘を手放すことを嫌った。
結婚すると嫁のいた家、または新たに小さな家を建て、そこで新しい独立した家庭が始まる。
子どもができると普通の家に建てかえる。
婚約には女の方から男に自分の作った手甲に美しい刺繍をして贈り、男は女が常に腰に下げるマキリ (小刀) の鞘などを美しく彫刻して贈り、互いに受け入れることによって成立したと見なされる所もあった。
若夫婦が妻の元にとまるか、夫の元に行くかは自由に考えられていた。
ただ他部落同士の結婚だと、その部落の祭りの方法やその家の印などが違うので、男が女の実家にとまってもその祭式や家印を継ぐこととは別であった。
アイヌは家系をやかましくいい、母方の従姉妹・伯叔母・めいなどとは結婚を許されなかった。
これらは母から娘へ伝えられるウプソロを同じくするからであり、同じウプソロを持つ系統は結婚を許されていなかった。
ただしウプソロを変えることによって、この禁忌はまぬかれることができたが、そうした結婚は不幸になると考えられていた。
故に父側の従姉妹とならば許されたが、母側の従姉妹とは同じウプソロ同士だから禁忌とされていたのである。
アイヌは一夫多妻制だといわれているが、これが原則だというわけではなく、妻に子どもがないとか、面倒を見なければならない独身女を多く持つ有力者とかが持つにすぎなかった。
妾をポンマツ (小妻) といい、別に小さな家を持ち、労働は本家と共にしていた。
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引用文献
- 高倉新一郎 (1974) :『日本の民俗 1北海道』, 第一法規出版社, 1974
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