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山内一也 (2018), pp.22,23
鎖国下の日本には、享和三年(1803)、オランダ領のバタビア (現在のインドネシア) からの船でジェンナーによる種痘の簡単な情報が届いていた。
詳細な情報は、それから10年後、意外にもロシアからもたらされた。
「文化露寇」と呼ばれる事件で、ロシア軍艦により樺太の大泊から拉致されていた中川五郎治が解放された際、シベリアで抑留中にもらった種痘の解説書を持ち帰ったのである。
これはジェンナーが1798年に発表した最初の種痘の報告のロシア語訳だった。
天才的通詞 (通訳) の馬場佐十郎が七年かけて翻訳し、文政三年(1820)『遁花秘訣』という表題を付けて出版した。
天然痘の発痘を花になぞらえ、それから免れる秘法を語る、という意昧である。
文政五年(1822)、長崎出島のオランダ商館長のブロンホフは、バタビアから痘苗を取り寄せたが、二ヶ月以上かかった航海でワクチンは失活していた。
翌年には、シーボルトがバタビアから痘苗を持参しすぐに種痘を行ったが、これも失敗に終わった。
佐賀藩主鍋島直正から痘苗の輸入を命じられた藩医楢林宗建は、嘉永二年(1849)、商館のドイツ人医師オットー・モーニケに頼んで、バタビアの医事局長の子供から採取したかさぶたを運んできてもらった。
六月二六日、モーニケが三人の子供に接種したところ、宗建の生後10ヶ月の息子だけに見事な発痘が見られた。
これが、日本で最初の種痘となった。
二ヶ月後には藩主の嗣子である淳一郎も種痘を受けた。
痘苗の到着を待ちわびていた肥前大村藩の藩医長与俊達 (前述の長与専斎の祖父) は、すぐに孫娘を長崎に行かせて種痘を受けさせた。
彼は、城下の村々から、課役として毎週交代で種痘を受けていない子供を出させるようにし、種がきれない仕組みを作った。
種痘は子供の腕から腕に植え継がれ、その年のうちに大坂と江戸に、一〜二年のうちに全国に普及した。
安政四年(1857)には、蘭方医桑田立斎が種痘を行った子供たちを連れて蝦夷地 (北海道) に赴いた。
そして、根室、国後島まで足を延ばし、三ヶ月で 6000人あまりのアイヌの人々に種痘を行った。
子供の腕から腕へ植え継ぐ種痘の手法は、明治時代に制度化された。
その際に作られた種痘規則には、「種痘を受けた者は、痘漿 (発痘部位の漿液) を採取する必要がある場合、拒んではいけない」旨が書かれていた。
種の提供を義務化したのは、当時の英国のシステムにならったものである。
明治24年(1891) になるとウシで製造した痘苗のみが用いられるようになり、腕から腕への植え継ぎ制度は終わりを告げた。
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砂沢クラ (1983), p.33
小きい時、私たちはほうそうの予防接種のことをウエボソ (植えぼうそう) と言っていました。
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ウエボソ
安政四年 (一八五七年)、箱館奉行が桑田立斎と深瀬洋春の二医師を東蝦夷(えぞ)地、西蝦夷地に派遣、アイヌ、和人の別なく巡回種痘を行う。
翌五年には、斜里、北蝦夷、千島でも実施。
日本初の巡回種痘とされている。
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- 引用文献
- 高倉新一郎 (1969) : 高倉新一郎編『日本庶民生活史料集成 第4巻 探検・紀行・地誌 北辺篇』, 三一書房, 1969.
- 砂沢クラ (1983) :『ク スクップ オルシペ 私の一代の話』, 北海道新聞社, 1983
- 平沢屏山 (1857) :『蝦夷人種痘之図』
- 山内一也 (2018) :『 ウイルスの意味論──生命の定義を超えた存在』, みすず書房, 2018.
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