Up アイヌ終焉後の「アイヌ人口」の考え方 作成: 2016-12-02
更新: 2019-02-04


    アイヌとは,アイヌ文化を生きた者のことである。
    よって,アイヌ終焉後のアイヌ人口はゼロである。

    アイヌ終焉後に「アイヌ人口」を言う者は,「アイヌの血筋を引く者」を思っていることになる。
    しかし,「アイヌの血筋を引く者」となると,それはまったく限定のできないものになる。

    つぎは,アイヌ終焉直後の「アイヌの血筋」拡散のスピードについて論じている
    ──「アイヌの血筋を引く者」の数とは,このように考えるものである:
      喜多章明 (1936), pp.90,91
     喜多章明『アイヌ沿革誌 : 北海道旧土人保護法をめぐって』, pp.79-105.
     現在に於ける旧土人人口は昭和十年の調査に依れば別表に示す如く 3,713 戸、人口 16,324 人にして、是を明治五年以来の統計に徴するに明治五年の 15,275 人より一進一退の状態にて大正五年に 18,674 となり、その後亦多少の増減を示しつつ今日に及んでゐる。
    然し之は表面の数字のみであって、事実は毎年 400 人乃至 500 人宛増加してゐる
    1年に 400 人宛増加したとしても、10 年には 4,000 人、明治五年以来 65 年の間には 26,000 人増加しなければならぬ勘定になるが、統計数字から見ると依然として 15,000 内外に停頓してゐるのは、如何なる理由(わけ)か。
    それは宛も満々と湛へられた(たらい)の水の中に一滴の朱を注いだやうなものであって、アイヌ族は漸次同化に依り、混血に依って九千万の大和民族中に吸収され、融合されつつある。 揮然たる一体になりつつあるが為である。
    土人と言ひ、和人と言ふもそれは単に事実上の呼称であって、現行の法制上では何等の区別がある訳でなく、等しく平民である。 従って従来住馴れた古潭(コタン)から離れて他府県、他市町村の一般和人部落に入込んだものは、皆和人となって調査される。
    国後島には幕末迄 3,000 人もゐたアイヌは概ね函館に移住したのであるが、今日函館には一人もアイヌはゐないことになっている。 それは血族的にアイヌが亡んだのではない。 同化に依って、アイヌ人たる社会的存在を失った迄である。
    是は単なる一例にしてその他府県に、或は一般市町村内に、アイヌ人と呼ばれないアイヌ人はザラにある。
    15,000 と言ふ人口は、保護法に依って和人の不入地とされてゐる古潭を基礎として調査したものに過ぎない
    近来はアイヌ人も文化が進み、知識が向上するに従って時勢に目覚めたものは、いろいろな職業を求めて他府県、他市町村に転出する。
    転出したものは和人となり、転出する技倆もなく、古潭に停ってコツコツ旧慣を墨守するものはアイヌ人として調査され、アイヌ人として遇せられ、アイヌ人として差別されてゐると言ふのが、現在の実相である。
    尤も古潭にあるもの総べてが生活技倆に乏しいとは断言出来ないが概してその傾向がある。
     アイヌ人と和人との雑婚は歳と共に増加してゐる。 現在アイヌ人にしても和人の家に入れるものは 800 人、和人にしてアイヌ人の家に入れるものは 600 人、かくて両種族は融然として相融合しつつある。
    この結果はいやが上にも純粋土人の数を減ぜしめている。
    本道土人の人口が増加しない理由はざあっと以上のやうな理由に胚胎するのである。


    引用文献
    • 喜多章明 (1936) :「旧土人保護事業概説」
        喜多章明『アイヌ沿革誌 : 北海道旧土人保護法をめぐって』, 北海道出版企画センター, 1987, pp.79-105.