アイヌは,百年以上もむかしに終わっている。
「アイヌ文化」は,いまはどこをさがしても無いものである。
したがって,「アイヌ文化の継承」のことばは,虚偽である。
「アイヌ文化の継承」の嘘をついているのは,利権"アイヌ" である。
利権"アイヌ" は,なぜこの嘘をつくのか。
利権"アイヌ" は,観光"アイヌ" である。
いま利権"アイヌ" は,「アイヌの代表」を装う。
そこでこれに似合うように,観光"アイヌ" を隠して「アイヌ文化の継承」"アイヌ" を装う。
以下,この流れの説明:
アイヌ終焉後も,和人のアイヌに対する固定観念は,しばらく続く。
アイヌ系統者は,この固定観念に遭うとき,「そんなアイヌはもういない──自分はそんなんじゃない」を主張する者になる。
知里真志保 (1909-1961)
『アイヌ民譚集』(1937), 岩波書店 (岩波文庫), 1981.
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p.167
普通にいわゆる「アイヌ」という概念は, 厳密にこれをいうならばよろしく「過去のアイヌ」と「現在(および将来)のアイヌ」とに区別せらるべきである.
人種学的には両者はもちろん同一であるにもせよ, 各々を支配する文化の内容は全然異る.
前者が悠久な太古に尾を曳く本来のアイヌ文化を背負って立ったに対し,後者は侮蔑と屈辱の附きまとう伝統の殻を破って,日本文化を直接に受継いでいる.
だから,「過去のアイヌ」と「現在(および将来)のアイヌ」との間には, 截然たる区別の一線が認識されなければならないのである.
普通に「アイヌ生活」とか「アイヌ民俗」とかいえば,必然的に「過去のアイヌ」の生活や習俗を意味すべきはずなのに, とかく「現在のアイヌ」のそれのごとく誤解されがちなのは, 当然に区別さるべき二概念が,「アイヌ」なる一語によって、漫然と代表せられていることに起因する.
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しかし,その固定観念への迎合を内容とするビジネスが興る。
「アイヌ観光」業である。
そして,アイヌ系統者のうちから,「アイヌ」を演じて収入を得ようとする者──観光"アイヌ" ──が現れる。
「そんなアイヌはもういない──自分はそんなんじゃない」でやっていくことにしたアイヌ系統者は,観光"アイヌ" によって足をすくわれる格好になる。
彼らは,観光"アイヌ" に反発する者になる:
違星北斗 (1901-1929)
『違星北斗遺稿 コタン』(草風館, 1995)
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白老のアイヌはまたも見せ物に 博覧会へ行った 咄! 咄!!
白老は土人学校が名物で アイヌの記事の種の出どころ
芸術の誇りも持たず 宗教の厳粛もない アイヌの見せ物
見せ物に出る様なアイヌ彼等こそ 亡びるものの名によりて死ね
聴けウタリー アイヌの中からアイヌをば 毒する者が出てもよいのか
酒故か無智な為かは知らねども 見せ物として出されるアイヌ
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鳩沢佐美夫 (1935-1971)
『沙流川─鳩沢佐美夫遺稿』, 草風館, 1995.
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pp.187,188.
で、そういったことでさ、この町内のとある地区がね、今、着々とそのアイヌ観光地として売り出そうとしているんだ。
なんかね、とうとう──来るべきところまで来たっていう感じなんだ。
昭和三十五年に、そのいわゆる "旧土人環境改善策" なるものを打ち出さなければならないんだ、という、不良環境のモデル地区、ね、写真入りで新聞に報道されたりした地域だ。──
最近では、公営住宅や、またそれぞれの努力などで、十年前の家庭はほとんど姿を消してしまった。
が、その生まれ変わったはずの聚落が、今度は俗悪なアイヌ部落の亜流化をくみとろうとしている!──。
なぜ、景勝や古蹟の乏しい山林に、こういった特殊施設を、アイヌ自ら、しかも今日の時点において作ろうとするのかね──。
そのことを彼たちに質すと、「アイヌがやらなければ、悪質なシャモ (和人) が勝手にアイヌの名をかたり、金儲けをするから」と言う。
「じゃ、そういう悪質シャモの排除にこそ努めるべきでないか?」ときくと、「われわれも、そのことで潤っている」──。
つまり、観光のおかげで部落もよくなり、業者からピアノも贈られた (小学校)。
何十万とかの寄付もあった──と、並ベたてられる。
「今それをやめろというのなら、じゃわれわれの生活をどう保障する」と逆襲さえしてくる始末。
そして、ね、これまで自分たちは観光業者に利用されて各観光地に立っていた。
だから、どうせやるんなら、そんな他所の土地で、シャモに利用されるんでなく、自分たちの部落でやったほうがいいのだ──という割切り方。
しかもだよ、ジョークなのか、アレゴリーなのか、昔はアイヌといって、われわれはバカにされた。
今度はひとつ、われわれアイヌを見にくるシャモどもをふんだまかして、うんと金をまきあげてやる。
「なあに、適当なことをやって見せれば、喜んで金を置いていくからな」‥‥‥。
ね、ドライというか、くそくらえバイタリティというか、とにかく、見上げたショーマンイズム──。
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観光"アイヌ" になる者は,アイヌ系統者のほんの一部に過ぎない。
しかし,「そんなアイヌはもういない──自分はそんなんじゃない」の者は,表舞台から消えるのみである。
和人のアイヌに対する固定観念は,観光"アイヌ" を以て充足された。
そしていまや,観光"アイヌ" が「アイヌ」の意味になり,観光"アイヌ" の存在を以て「アイヌ」はいまも存在する者になる。
観光"アイヌ" は,生計を維持する必要から,利権"アイヌ"化する。
そして利権"アイヌ" であるために,政治"アイヌ" になる。
政治"アイヌ" は,「アイヌの代表」を騙る者になる。
これは,潜在的アイヌ系統者の存在を都合よく利用するということである。
アイヌ予算は,潜在的アイヌ系統者を「アイヌ」と定め,相応の額を計上する。
この額を手にするのは, "アイヌ"団体の執行部である。
少数の者に金が集まる。
少数の者に金が集まるこの構造は,最初から利権構造化している。
地方自治体,地域経済界の利権構造の一部になっているわけである。
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