Up 悪者論 作成: 2018-12-08
更新: 2018-12-14


    "アイヌ\” イデオロギーは,和人悪者論である。
    和人のアイヌ使役は,「虐使」でなければならない。

    「虐使」は,自分で見たわけではないから,これは推論したものである。
    実際,つぎの三段論法の結論である:
    1. 和人は悪者である。
    2. 悪者のアイヌ使役は,虐使になる。
    3. よって,和人のアイヌ使役は,虐使である。


    ひとは,「和人によるアイヌ虐使」を聞かされると,これを鵜呑みにする。
    「アイヌ」を勉強したことがないからである。
    そしてこのとき思い浮かべる「虐使」のイメージは,小説や映画などに出てくる奴隷労働とか,囚人強制労働とか,タコ部屋労働の類である。
    実際,そのようなものしか思い浮かべられない。

    「和人によるアイヌ虐使」を説く者の目的は,ひとがこのようになることである。
    そして,たやすく達成されるというわけである。


    「和人によるアイヌ虐使」──さて,実際のところはどうか。

    「アイヌ虐使」の場面となるところは,「○○場所」である。
    労働の内夜は,漁撈である。
    アイヌを「虐使」するのは,場所請負人である。
    さて,アイヌをどう使役すれば「虐使」になるか。

    小説や映画などに出てくる奴隷労働,囚人強制労働,タコ部屋労働は,同じことを延々と続けるタイプの労働である。 このタイプの労働は,労働単位の負荷を大きくして,一日の労働時間を長くし,そして連日働かせれば,「虐使」になる。

    漁撈は,このタイプの労働にはならない(註)
    漁には猟期がある。
    漁は,豊凶がある。
    海の状態が悪ければ漁に出られず,そして海は状態のよい方が稀である。

    実際,この場合の「虐使」の内容は,つぎのようになる:
      窪田子蔵 (1856), 25/34
    夷人申様は、運上屋我等を虐使する事殊に甚し。
    春二月鯡漁初めてより引続夏は昆布とり、又鮑魚捕り、秋は鮭漁、其間には魚漁の支度、網繕ひ等まで紛々無限事に候。
    漸く十一月に至り私家に帰る事を得るなり。
    然らば我等年中家に居るは冬より春へ僅三月なり。
    此に骨折候とも、運上屋我等に報ゆるに木綿一反或ひは青銭六百文に過ぎず、
    昨年リイシリの島へ行き役を取り、三四月勤め候とも、一銭の報も与へず、
    余り此如き事甚敷打続候へば、此節は自然漁事勤むるもの無之、大概に打置候。 されば漁事も年々少なくなり候なり。

    「虐使」に対する不満は,むしろ報酬や処遇に対してである。
    そして,「虐使」の結果は,「漁事勤むるもの無之、大概に打置」である。
    やるやらないは依然アイヌの側にある,というわけである。


    「アイヌ虐使」ストーリーの出処は,ほぼ松浦武四郎の『近世蝦夷人物誌』である。
    ストーリーは,つぎの類である:
      松浦武四郎 (1857-1860), pp.785,786
    東蝦夷地サル場所は素濱にて漁業少なく沿海凡八里(ばかり)なるが、山に入る事は凡二十五六里にも成、サルフツ、アツヘツ、フクモミ、ケリマフ、カハリ等といへる川あり。
    依て此川筋村居多きが故に、人家凡三百餘軒、人口千三百餘人になりたり。
    故に此の地請負の者、當所人數をアツケシ、石狩、アツ夕、ヲタルナイ等へ遣し出稼をぞ致させ召使ひけるに、
    其使ひ方、實に彼地へ行候や、一年にて戻り候事やらんまた二年三年も置るゝやらんも(はか)り難く、
    家に残し置かる妻等に其留守を伺ひ番人、稼方(かせぎかた)等のもの行、強婬致し、行々は妾等になし、 左候時は其夫を三年、五年となく出稼場所に置て故郷へは歸し不遣、
    また女の子ども行候時は、理非の辨もなき稼方、番人等の為に強婬せられ、または口口口等なさるゝ事有之、それが為に産れ附かざる不具となり、
    また船方、漁師等の為に病毒を傳染して終に療養とも不得はかなくなるもの多き
    が故に、實に出稼と口に言はゞ六親眷屬悲しみて生涯の別れの様に覺え、彼地へ行哉晝夜の差別なく饑はらにて追役せらるゝが故に、歸り来らざるまでは實に家にあるものは出稼の者を案じ、出稼の者は家に殘し置夫妻または親子を案て居ける事なりけるに、共事は三歳の兒たりとも恐れざるは無に、‥‥

    このストーリーには,いろいろ無理がある。

    先ず,「一年にて戻り候事やらんまた二年三年も置るゝやらん」というが,漁期以外に人を留めることは,経営的に意味がない──余計なコストである。
    細々と漁をさせても,利益は出ないのである。
    実際,凶漁のときは,雇った者を帰すことになる。

    よって,「行ったきり戻らない」は,強制留置ではあり得ない。
    「行ったきり戻らない」理由は,死んでしまったか,そこに留まる何らかの関係性ができたか,歸る術をもたないか,である。
    しかしその場合でも,帰ってきた同郷の者が事情を知らせるだろうから,消息不明を心配する構えの「行ったきり戻らない」にはならない。

    また,「出稼」は,「強制労働──相手の嫌がる労働を強いる」ではない。
    ひとは,狩猟採集を年中のものと思いがちだが,これは時期のものである。
    出稼は基本的にアイヌが択ぶものであって,狩猟採集に不向きな時期と合うからこれを択ぶのである。

    上の引用文に出てくる「素濱にて漁業少なく沿海凡八里斗」のサル場所とは,つぎのようなところである:
      同上, p.809
    東部サル場所といへるは西ユウフツ領より東ニイカップ境に至り、其の中にサルベツといへる大川あり。
    川源はトカチ境又石狩領のユウバリ等と接して此源を窮めしもの昔しより稀なりけるが、其場所内
      サルフト、ヒラカ、シユムンコツ、シヤリハ、ニナ、
      ユフタニ、ヲサツナイ、ホロサル、ヌツケヘツ、ニヨイ、
      モンヘツ、ニナツミ、カハリ、アツヘツ、ヒラトリ
    と十五ケ所に分れ、
    人別,文化度前は千七八百人も有りしが、追々減じて今は千二百二十人ならでなし。

    この比較的狭い地域に「千七八百人」から「千二百二十人」は,狩猟採集の生活形態では「過密」と言えるものである。
    なにがこの過密を可能にしていたか。
    出稼ということになる。


    以前,ヒグマの激痩せの写真が報道されたことがある。
    意趣は,「人間による自然破壊」キャンペーンである。
    実際は,飢える時期のヒグマを撮ったというに過ぎない。
    時期は夏であり,そして夏はヒグマが餌に困窮する時である。

    エコロジーは,「人間による自然破壊」を構えにしたイデオロギーになる。
    そしてこの構えから,事実捏造をやってしまう。
    正義感が昂ぶる一方で,周囲の無反応に対していると,悪人をつくらないでは気が収まらなくなるのである。

    義憤を語る松浦武四郎は,これになっている:
      同上, pp.810,811
    此こと等また三巻を綴りて漸々筆を机上に置んとせしに、
    五六日の疲労に如何にも心身草臥、
    筆投捨て、 机によりかかり、 一陣と思ふまに、
    夢魂陸奥の山川を越え、
    七里の怒濤の彼方箱館の港に至り、
    此度建しとかいへる、 よく聞侍る、 何とかはなして一見共美を見たくぞ覚え居たる山上の町といへる處の三階へ我も行たるに、
    爰に今ぞ栄え昌へし暮し給ふ官吏達が、
    彼地に名を得し宮娥糸娥か京糸三絃に、 蛇足の菓子やら武蔵野の料理、
    其の幇間には御用達請負人やら問屋ども、大工棟梁、此地差配人阿諛をなし、 歌へや舞へと楽しみ給ふを見ると思ひし其間に、
    杯盤を吹来る一陣の腥風に頭ふりかへり見ば、
    盤中の魚軒(さしみ)は皆紅血を滴る斗りの人肉、
    浸し物かと思ひしは土人の臓腑、
    美肉は骨節アパラの数々、
    盃中の物は皆なま血、

    見るも二目ともかなと、
    日面の障子に聖賢の像もやと思ひしは皆土人の亡霊にして、
    アヽウラメシヤ アヽウラメシヤの声に目をさましければ、
    満身冷汗を流し、
    豈元の深川伊豫橋の寓居なる餐熬豆居の南窓の下の机にてありしや。
    我が心得はものかは、
    四方の君子よく是を熟閲なし給ふ事を冀ふは、
    松浦竹四郎源弘しるし卒て。


    註:しかし,つぎのことが係わっている可能性はある:
      吉田常吉 (1962), pp.301,302
    ‥‥ 安政元年(1854) 六月幕府は箱館奉行を設置し、ついで東西蝦夷地を上知して再び直轄領とした。
    これを機会に幕府は西蝦夷地の道路の整備に着手した。
    西蝦夷地は東蝦夷地と異なり、山が海にせまって断崖をなし、雄冬(おふゆ)岬を越えるまでは難所の連続で、ほとんど陸路を行くことができなかった。
    箱館奉行は台場の普請や役宅の建築など急を要する事業が多かったので道路の開鑿には官費を用いない方法をとった。
    すなわち各場所請負人に命じてその持場所内の道路を開かせ、また小部分は橋銭を取って経費を償う方法で出願者に許可した。
    当時この地方の請負人は豊漁に恵まれて資力があったのと、また鰊出稼人が多くて道路の開鑿に要する労力が充分であったのとによる。
    こうして東西海岸を連絡する長万部・磯谷間約十里を結ぶ黒松内山道をはじめ、雷電嶺 (磯谷・岩内間)、岩内・余市間 (文化年間に開鑿されたが、すでに荒廃していた)、余市・小樽間、小樽・銭函間の山道が開鑿されて石狩に出る道路が開通した。
    さらに濃昼(こきびる)山道・雄冬山道も完成し、従来から東西海岸連絡の重要路線であった石狩低地帯には、銭函より発寒(はっさぶ)・札幌を経て千歳に至る道路も開通た。
    また熊石・島小牧間の太田山・狩場山の険山には、太田山道・狩場山道ができ、箱館から江差に至る捷路として(うずら)山道などが切り開かれた。
    これによって蝦夷地を一周する循環道路は、ことにほぼ完成をみたのである。



  • 引用文献
    • 窪田子蔵 (1856) :『協和私役 三』
    • 松浦武四郎 (1857-1860) : 『近世蝦夷人物誌』
      • 高倉新一郎編『日本庶民生活史料集成 第4巻』(探検・紀行・地誌. 北辺篇), 三一書房, 1969. pp.731-813.
    • 吉田常吉 (1962) :「蝦夷地の歴史」
      • 吉田常吉[編], 松浦武四郎『新版 蝦夷日誌(下), 時事通信社, 1962, pp.279-306.