|
高倉新一郎 (1959 ), pp.194,195
従来蝦夷地に出稼ぎする者は沖口役所の改を受けて通行切手を貰わねばならなかったが、
箱館並びに付近の諸村の人別に加わっているものに限り、村役人の奥印を得てこれを山越内の番所に、
もし砂原・鷲ノ木から渡海の者は、室蘭番所に、
示せばよいことにし、
箱館並びに入稼する諸国人民の旅人入役を免除し、
出稼人中蝦夷地出生の者は、その場所の戸籍に入れ、
出稼人でも永住を希望する者は、送籍がなくその場所の戸籍に加えなくとも永住人として取り扱い、越年役は免除することにした。
従来、諸国から蝦夷島に来た者は男一人銭一貫二百文、女は六百文、十五歳以下は各半額の旅人入銭を納め、年を越す者はその半額の越年役を納めねばならなかったのである。
又場所請負人に対しては、移民に対し場所を閉すが如きことはないように諭し、
支配人・番人等は妻子を携え、出来るならばその場所に永住するよう奨励した。
ことに、従来慣行として神威岬以北に婦人が渡航することが禁止されたにかかわらず、この頃になると無視され、勿論漁期だけではあるが増毛の方まで和人の婦人の姿が見え、小樽内などは家族づれの永住者がふえて来た。
|
|
|
同上, pp.198-200
幕府は士族・浪人を蝦夷地に移し、警備の一端とすると共に開拓に役立たせようとし、
希望者には従来の禄高の外に在任手当を支給し、
支度金・路用・賄道具代等の引越料を与え、
無利子の年賦拝借金を許し、
開墾を志す者には土地を割渡し、
成功したものには下付することにし、
その他の仕事をする者には資金を貸与した。
その数は文久二 [1862] 年百十六人に達し、
石狩・室蘭等に入地したものが多く、
ことに、樺太経営に対して根城の役目を果す石狩平野には所々に士族村が作られた。
石狩場所十三場所は、文化十二年(1815) 阿部屋傳兵衛一手請負いとなり、天保二年(1831) からは鮭場及び十三箇場所の区別を廃して一場所としたが、
安政五年(1858) この場所が樺太経営の基地として重要な地点であることから、阿部屋が手元不如意で蝦夷介抱が行き届かないのを理由に直捌とし、一般の出稼ぎを許した。
ために、河岸に多くの漁場が作られた。
幕府は又官費をもって農民を募集し、指導者を置いて各地に御手作場と呼ぶ新開墾地を設けたが、蝦夷地でも長万部付近、岩内及び石狩原野にも設けられた。
後日、北海道経営の新中心地として建設された札幌は、慶応二年(1866) 二宮尊徳の教えを受けた大友亀太郎が指導してサツポロ川沿岸に設けた御手作場を足場として出来たものである。
なお、幕府はしきりに開墾を奨励し、各場所、運上屋・会所・番屋等の付近には皆若干の耕作地を見るようになった。
こうして、蝦夷地における和人の戸口は急激に増加し、所々に和人の部落を見るようになった。
和人の増加につれて、蝦夷の影は次第にうすれて行った。
|
|
引用文献
- 高倉新一郎 (1959 ) : 『蝦夷地』, 至文堂 (日本歴史新書), 1959
|