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萱野茂 (1980), p.193
アイヌはアイヌ・モシリ、すなわち〈日本人〉が勝手に名づけた北海道を〈日本国〉へ売ったおぼえも、貸したおぼえもございません。
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「アイヌ共有財産裁判」というのもあったが,「アイヌモシリ」を唱える類は,"アイヌ" にはヤブヘビになる。
「賠償」を要求する自分の資格が何なのか,わからなくなるからである:
1. |
「売ったおぼえも、貸したおぼえもない」を言えば,「<売ったおぼえも、貸したおぼえもない>の主語は何か?」と返されることになる。
「<アイヌ>が主語だ」とは,言えない。
アイヌにとって土地は,誰のものでもないもの──誰かのものであってはならないもの──だからである。
実際,狩猟採集の移動生活は,土地が誰かのものであってはならないことが条件である。
アイヌの謂う「アイヌモシリ」に,「土地所有」の含意は無い。
「アイヌモシリ」を「アイヌの所有地」の意味にする者は,商品経済の「土地所有」の考えに感化されている者である。
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2. |
賠償を受け取るのが "アイヌ" だという理屈が立たない。
「賠償」とは,先祖の不遇の賠償を末裔が受け取るというものではない。
実際,「先祖の不遇の賠償」を言い出したら,賠償を主張できる者がいくらでもいる。
翻って,"アイヌ" には,「先祖の不遇の賠償を末裔が受けられる」の考えの浸透が,確かに見て取れる。
先祖Aに対し自分を「Aの遺族」と呼ぶなどは,これである。
──「末裔」のことばに「賠償」のことばは付かないが,「遺族」にはつく (例 :「遺族補償」「遺族年金」)。
言わずもがなだが,「末裔」は「遺族」ではない。
「Aの遺族」とは,Aが死んだときその周りに残っている (この「残っている」には「生きている」が含意される) 家族・親族のことである。
ついでに言えば,「アイヌ遺骨」の言い方も間違っている。
遺骨は,遺族の存在があって──少なくとも,遺族の存在が想定される限りで──遺骨である。
遺族が存在しなくなった者の骨は,遺骨ではない。
"アイヌ" が「末裔」を「遺族」に言い換えようとする理由が,ここにもある。
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3. |
"アイヌ" が要求できる賠償は,あくまでも自分の損害の賠償である。
その要求は,つぎの形になるのみである:
「 |
自分たちはアイヌ民族である。しかしアイヌ民族の生活──狩猟採集の移動生活──をできなくされている。損害賠償せよ。」
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もちろん,"アイヌ" はこの形の訴えはしない。
"アイヌ" にとってアイヌは《これをパフォーマンスする》というものであって,"アイヌ" においてもアイヌは《これを生きる》というものではないからである。
なお,"アイヌ" のアイヌパフォーマンスには,つぎの2通りがある:
a. 営業
b. アイデンティティの置き所
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引用文献
- 萱野茂 (1980) : 萱野茂『アイヌの碑』(朝日文庫) , 朝日新聞社, 1980.
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