Up 自滅 作成: 2017-01-21
更新: 2019-11-24


      萱野茂 (1980), p.193
    アイヌはアイヌ・モシリ、すなわち〈日本人〉が勝手に名づけた北海道を〈日本国〉へ売ったおぼえも、貸したおぼえもございません。

    「アイヌ共有財産裁判」というのもあったが,「アイヌモシリ」を唱える類は,"アイヌ" にはヤブヘビになる。
    「賠償」を要求する自分の資格が何なのか,わからなくなるからである:


     1.  売ったおぼえも、貸したおぼえもない」を言えば,「<売ったおぼえも、貸したおぼえもない>の主語は何か?」と返されることになる。

    <アイヌ>が主語だ」とは,言えない。
    アイヌにとって土地は,誰のものでもないもの──誰かのものであってはならないもの──だからである。
    実際,狩猟採集の移動生活は,土地が誰かのものであってはならないことが条件である。

    アイヌの謂う「アイヌモシリ」に,「土地所有」の含意は無い。
    「アイヌモシリ」を「アイヌの所有地」の意味にする者は,商品経済の「土地所有」の考えに感化されている者である。


     2.  賠償を受け取るのが "アイヌ" だという理屈が立たない。
    「賠償」とは,先祖の不遇の賠償を末裔が受け取るというものではない。
    実際,「先祖の不遇の賠償」を言い出したら,賠償を主張できる者がいくらでもいる。

    翻って,"アイヌ" には,「先祖の不遇の賠償を末裔が受けられる」の考えの浸透が,確かに見て取れる。
    先祖Aに対し自分を「Aの遺族」と呼ぶなどは,これである。
    ──「末裔」のことばに「賠償」のことばは付かないが,「遺族」にはつく (例 :「遺族補償」「遺族年金」)。

    言わずもがなだが,「末裔」は「遺族」ではない。
    「Aの遺族」とは,Aが死んだときその周りに残っている (この「残っている」には「生きている」が含意される) 家族・親族のことである。

    ついでに言えば,「アイヌ遺骨」の言い方も間違っている。
    遺骨は,遺族の存在があって──少なくとも,遺族の存在が想定される限りで──遺骨である。
    遺族が存在しなくなった者の骨は,遺骨ではない。
    "アイヌ" が「末裔」を「遺族」に言い換えようとする理由が,ここにもある。


     3.  "アイヌ" が要求できる賠償は,あくまでも自分の損害の賠償である。
    その要求は,つぎの形になるのみである:
     「 自分たちはアイヌ民族である。しかしアイヌ民族の生活──狩猟採集の移動生活──をできなくされている。損害賠償せよ。

    もちろん,"アイヌ" はこの形の訴えはしない。
    "アイヌ" にとってアイヌは《これをパフォーマンスする》というものであって,"アイヌ" においてもアイヌは《これを生きる》というものではないからである。

    なお,"アイヌ" のアイヌパフォーマンスには,つぎの2通りがある:
      a. 営業
      b. アイデンティティの置き所


    引用文献
    • 萱野茂 (1980) : 萱野茂『アイヌの碑』(朝日文庫) , 朝日新聞社, 1980.