「北奥地名考──奥羽の地名から観た本州蝦夷語の研究」,1932
『東洋語学の研究 金澤博士還暦記念』, 三省堂, pp.459-551.
国立国会図書館デジタルコレクション :
https://dl.ndl.go.jp/pid/1126174/1/237
つぎは,「二 奥州蝦夷の語はアイヌの古い一方言」(pp.468-472) の引用:
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二 奥州蝦夷の語はアイヌの古い一方言
一体奥州に居た所の蝦夷は如何なる言葉を話してゐた種族であらうか。
まづ最もたしかなことは、本州の蝦夷の内、北端の奥州の蝦夷は、外が浜反ぴ奥南部の岡名部、北郡半島の地に、極めて近い代までその余蘖が残ってゐたことである。
その事は天明寛政頃の處士や幕吏の蝦夷へ赴く人々が、それらに逢って、その日記や紀行に判然と書いてゐるのである。
その後こゝに遊んだ菅江真澄が、遊覧記『率土の濱づたひ』に、はっきりと斯う書き伝へてくれた。
『此の浦はもと蝦夷の末ながら、物の云ひ樣異浦にことならず、近き昔とやらんに鬚剃り、頭をそりて、女も文身ならで、そのけちめなし。浦のをさ四郎三郎といふがもとに宿かる』とて、『猶ありたりし袰月の弊岐利婆が末の子を又右衛門といひ、松ヶ崎の加布多以武その末を今は治郎兵衛といひ、藤島の牟左訶以武いまその末は清八とひ、宇氐道の久麽他可以武の末なるこの宿の主の四郎三郎なり云々』と,明僚に貴重な記録を留めて置いて呉れたのである.
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やゝ遅れて蝦夷へ渡った村上島之丞 (泰檍丸) は、その著『陸羽州驛路圖』の字鐵村の條に、
『字鐵村は宝暦年間まで蝦夷の容貌なり。酋長をクマタカアイノ・フルフクイン・ウテレキ・セキレバ・ルウマンアイノ・ソタツイン・タマカイなんどといへる名にてありしが今服従せり』と註してゐる。
中道氏の『津軽舊事談』所引津軽藩廳日記抄出、延寶五年三月八日の條に,またこの人人の名が出て来る。
そして次の様に書いてゐる。
今別かぶたいん、るてるけ、ゆきたいん、へきりば御台所迄串貝五連、蚫三十、榮螺四十差上之儀、入御耳之所、於御書院御白沙,右狄共四人御覧被遊、秋元金左衛門共召連罷出、右四人の狄共に御米貳俵宛遣之、
即ち前にあげた袰月の弊岐利婆及ぴ松ケ崎の加布多以武である。
るてるけは多分、檍丸のウテレキと同じであるかも知れない。
Uterke「跳躍」、Oterke「蹂躪」などは、子供の時にする動作・特徴などから、その名が選まれるから、アイヌ男子の名として何れも極めて有りがちな語である。
そして宝暦の蝦夷改風は津軽舊事談に拠れば、その六年のことであって、それは津軽藩の俊傑乳井貢の英断の結果だった様である。
『宝暦六年九月朔日、乳井貢御用に付廻郷云々、此時外濱宇鐵邊に居る狄どもを皆々人間に取立、髭剃、鬢立させ、女狄は髪結せ、歯染させ、戸數人別帳へ入
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宗旨改め、寺持たせ候間、狄とも寔にありがたきと、乳井を佛様のやうに覚候』(工藤家記)
この所謂『狄』がアイヌであった証拠は、海の彼方のアイヌと同様に、往々何々アイヌといふ名をもってゐる事である。
北海道樺太を通じて、男子は何々アイヌ、女子は何々マッと名づけること、さながら、日本の昔の何々彦、何々姫のやうな定まりがあるものであって. 中には、ウテレキだのヘキリパの様に、アイヌが附かない名もあるが、それさへも、本式に改まっていふ時にはやはり附けて呼ぷ習慣である。
この語尾のアイヌは、何々彦・何々麻呂といふが如く、いはば男子の通名の常型であるから、松前家の古文書に出て来る程の酋長名には沢山見えて居る。
尤も語尾であるものだから往々たゞアインとしか聞えないので、屢ゝアインと書かれる。
例へば津軽一統志の記録した酋長名、尻岸内のヤクモタイン、汐タピ崎のヲヤワイン、鷲別のマケジャイン、厚岸のヲクマカイン、国尻のトノムシャイン、宗谷のシカヘタイン、天鹽のトミウヘワイン等々。
また「御領内の狄の覚」と題して外が濱の狄四十二軒を挙げた中にも、大方は已に日本名になって奥
平部村の与四郎、松ケ蛸村の林藏、藤崎村の萬五郎、砂ケ森村の作十郎、小市郎. 宇銭村の四郎三郎などなってゐる中に、向袰月村のイホカイ、小泊村のイソタイヌ,及び釜の澤村のマコラ犬の名が見えてゐる。
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寛文九年の北海道蝦夷争乱に、この津軽の狄たちは、飛脚船に雇用されてゐる。
その折の記録に、
と題して、藤崎村の萬五郎は、萬五郎犬、松ヶ崎の林藏も林藏犬、四郎三郎も四郎三郎犬と書かれ、前掲釜の澤のマコラ犬は萬五郎逢犬と書かれてゐる。
改まった公式の場合故に、一同みな、語尾へアイヌを添へて書き上げられてゐるのである。
此に由って見れば、此本州の北端に近頃までゐた狄を通して、吾々は所謂奥のゑびす、みちのくのえぞが、やはり今のアイヌの少くとも同一種族だったことを知るものであり、そして北奥の地は、今から二三世紀前に、丁度現今の北海道入口地方のやうな時代を経過したに過ぎないことを想ひやることが出来るのである。
さて、既に青森湾頭の所謂狄が、アイ又だったとすれば、その用ゐて居た所の言語は、やはり今日のアイヌ語に、少くとも一味相通ずる、類似の言語であったことを想像することがまづ容認できるであらう。
この想像を裏書する事実も立派に存する。
それは、寛文九年の蝦夷蜂起の翌年,幕府が秘かに津軽藩に命じて、蝦夷の奥地の事情を探検せしめた。
津軽藩士のこの一行は、自分
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の領内の狄の殊に頭立つもの、字鐵村の四郎三郎及び藤崎村の萬五郎を通事として同行してゐる。
即ち,本州北端の蝦夷の言語は、当時北海道本島を中心に分布してゐたアイヌ語と、多少は異ってもゐたであらうが、通話が出来る程度のもの──少くとも時人をしてさう思はせた程の密な関係のあるものだったことは疑無い。
即ち、大きなアイヌ族の中の、少くとも一方言──いはぽ本州方言であったらうことが想像できるのである。
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この「二 奥州蝦夷の語はアイヌの古い一方言」の後,「北奥地名考」はアイヌ語地名の解釈に入って行く:
三 津軽海峡の南北の地名の似寄 (pp.472-493)
四 北海道の地名転訛の一般 (pp.493-514)
五 推定される奥州のアイヌ地名 (pp.514-)
六 結論 (pp.542-551)
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