Up 5月27日 作成: 2024-12-08
更新: 2024-12-09




      『菅江真澄全集 第2巻』(未来社, 1971). pp.58,59
    八十あまりの女、‥‥‥ いらへして、
    五十とせのむかし、ころは書月(ふみつき)のもちばかり、灰のいたくふりて四方やもの空もくらがりて、昼さへともし火とりて、みの笠にて行かひをしたり。
    いかなることにてかあらんとおもふをりしも、たがいふとなう、いま五日あらば津浪寄せこん、あなおそろしなど口にはいへど、たゞ、うきたることのやうにのみたれもたれもおぼえたりしが、かくて十九日の夜、タやみより盆おどりにさゞめきあひて、暁月夜いと涼しう海てるころまでうかれありくをりしも,もののゝ音せり。
    こや、なへ(地震) のふるらんとおもふほどに、ふしたる人もみなさはぎたち、とに出るほどもあらで、浪高う、さとうちあぐるに、こは、つなみぞやとて足をそらになきまよひ、山にのぼり、岡にたどるほどもなう、夜はあけがたになりて、すみたる家居は、なごりなう浪にいざなはれて、人もあまた死うせたるなかに、あが父の親は、砂の中にさかさまにかい埋れ、足のみさし出て身まかれり。
    それを、誰れをさむる人もなうなきをれば、又五日を過なぱ、かならず乙波といふものよりこんと、人ごとにいひもてさはぎ、かくて五日の日数もへぬれば廿五日の夜、げにや、はじめにこそをとれ、大波のより来けり。


    ここで語られているのは,1741年8月29日の寛保津波と,それに先立つ渡島大島の噴火。