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『菅江真澄集 第5』(秋田叢書刊行会, 1932), pp.512-515
チユツフシャクベツちふ流のあり。
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天註──舟をチイツフといひ魚をチユツフといふイタク也。
チユツフシャクベツとは魚の夏川といふイタクにして、夏の魚漁る川の名にてや。
遠きうらわに夏浦とて斑竹をいだせるところあり。
鱒のあびきして夏のみに在る名也。
シャモ是をシャコタンといふ、
おなじこゝろぱへ也〕
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こゝにイタンギという磯の名あり。
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天註──イタンギは椀をいひ,シュマイタンギとは茶碗をいうとなん。)
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そのいにしへ,源九郎義経の水むすひ給ひし器の,浪のとりて,こゝに打よせてけるゆへを語れり・
イタンギとは飯椀をいふなり。
判官義経の公をアヰノども,ヲキクルミとて,いまの世までもいやしかしこみ尊めり。
あるはいふ,夷の,判官とておそれかしこみて神といたゞきまつるは,小山悪四郞判官隆政と聞へたりし人,蝦夷の國の戦ひに鬼神のふるまひをなして,いさをしすくなからじ。
小山統の家には巴の圖を付てければ,巴を蝦夷ら判官のみしるしとて,かれにもこれにも彫て,身のたからといふいはれしかしか。
(小山四郞判官隆政は下野大掾義政の子たり。小山の家なる自標は雙頭の巴形なり,さりければ蝦夷の國に巴をめて貴めり。是をなにくれの調度に刻て家の護りとす。蝦夷は巴をたふとむと,いやしくもおもひ,此島へ渡す具ともに何のわいためなう三頭の巴を標してわたせば,蝦夷人これを見て,をのがもてる具ともに三巴を彫てけることしかり。)
源九郎義経の,ゆめ此嶋へ渡給ひしよしのあらざめれど,義経の高き御名をかりにかゝやかして,蝦夷人らををひやかしたる,名もなき,ひたかぶとのものゝ,をこなるふるまひにてやあらんかし。
おもふに小山判官と九郎判官と,蝦夷人か,うちまどへるにや。
西の浦江差の磯邊に,小山の観音とて,その菩薩の同を社に作りて,隆政のはぎまきをひめ齋るよし。
うへも,悪四郞のその勲功そしられたる。
(江差の湊にいと近き小山観音といふは,あらはゞきの神也。四郞隆政いくさきみとして勳をあらはし,あゆひひのとつおちたりしを,こゝに祭るという。又津刈の郡蒼杜の郷塘川のへたに,九郎義経の片脛□(脛巾,はばき) ここに齋ふ。處をシリベツの林といふ。又三河の國刀鹿の社のほとりにも,あらはゞきの神といふかみ社のあり。おなし神のところところに聞へ奉るものか。)
さはいへど源の九郎義経この嶋渡したまひしとは,むかしいまの世かけて,もろこし人までもすてに知れりなど人もはらいひわたれば,さるゆへもあらんか。
伊達治郎泰衡,人目は義経にそむき奉りしこゝろにてやありつらんかし,此君の行衛をしたひ奉り,はるはると贄の柵までのがれ来て,ほゐなう河田にうたれたりしと。
秀衡いまはとなりて義経の君を枕上にすへて,錦の袋を,なとき給ひと,世にものうき時は此ひもときて,いかにもなり給ふべし。
蝦夷の千嶋へも渡りおはしたまへということを,帒の中の書に,ねもころにかい聞へたりしといふ,みちのく物語もありけり。
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此コタンのアヰノの舟にこぎ送られて,‥‥
阿袁といふ魚 [アオザメ (地方名アオ)?] の,あら波をしのぎあまたむれ行を,舳なるアヰノ,くはやとてしらすれば,楫を捨てハナリをとり立ねらひ,ひとりにこぎまかせ,やといひてうちやれど,それ行てたゝさりければ,舟なかに足ぶみをしてウコラモコラといふは,あなくちをしと,いひはらだつこととなん。
舳艗 (へさき) にみな投足をして、うしろざまにのみ榜ぎ行ほどに、車縬捨て衣ぬぎ、汐に、づぶ’りと潜り海栗多くかゝへてあがり〔天註──ノナは、なによけんと唄ふその一くさにして、閩書にいふ海胆、あるはいふ海胆、霊蠃子のことなり。加世、亦は坊主加世のふたくさぞありける〕、石につき砕て、これ食とて、ひとりにも進めくひて休らい搒づれば,ウムシャ泊まりとて,三ッの石、磯もとに立ぬ。
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又見べき処のありといへば舟寄ていたれば、岩穴といひて、ひろきいはやどのあり。
こぐまりて入ば内問広く、ニヰガリを、おりのぼりして出て坂越れば、草むらに舟つけて待ぬ。
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天註──階子をニヰ (ガ=脱) リといふ。
金坑の鋪階子、或いふ出羽の奥山郷にこれを雁木胡梯といふものにして、たゞ柱に足段のあるのみ〕
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「岩穴のほとりのコタンに瞿麥の原あり
見へき處也」
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高草の中にアヰノの館舎のあり。
あまた、まどゐして酒のみ唄ひ、とに、あやむしろを婦人の織れり。
この莚は蒲の葉に木の皮、かづらの皮など文(アヤ)に染まぜて、いづこのコタンにても編みつ。
それらが生る男童、女童が歌うたひ、軒のした草に咲まぜたる撫子を折りもて、戯れてあそぶ。
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