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昨年十二月号所載池田鵞村氏の「山窩新考」興味を以て拝見しました。其の中には共鳴致す所もあり。失礼ながら御賛成致し兼ねる所もありますが、取りあえず小生の説として引きあいに出されて居るサンカの名義に就きまして、少々ばかり書かせて貰って責任を明かにしたいと思います。
小生は是まで随分いろいろと書き散らしたり、喋舌り散らしたりして居りますから、何時何で発表した説がたまたま池田氏の御注意に上ったか知りませんが、「喜田博士は山家と書くのが至当なり」と云ったとして引用せられてあります事は、少くも今日の小生としては迷惑に存じます。小生は大正九年九月の民族と歴史四巻三号に、「サンカ者名義考」なるものを発表して、有名なる琉球神道記の著者袋中和尚の泥洹之道の記事を引用し、サンカ者とは坂の者の語の転訛である事を明にし、吏に翌年十一月の同誌六巻五号に、高野山宝寿院所蔵文書によって補説してありますので、そんな者は池田氏のお目には触れては居りますまいが、ともかく私は爾来少くも十九年間、今以って其の説を固執して居るのであります。
泥洹之道は寛永十一年の著で、少くも其の頃にはサンカ者即ち坂の者だとの説が行われて居ったのでありますが、袋中の説は実は更に更に古い所に其の出所のある事を、其後宝寿院の文書によって知る事が出来たのです。此の文書は貞観政要格式目と題し、原本は何時の執筆か知れませぬが、宝寿院所蔵のものに、奥書に「永禄十年九月廿一日高野山居住之砌書之、偏是仏法興隆修学精進故也、願後見之輩無心離散以後可預御廻向者也、遠州相良庄西山寺住呂良宥写畢」とありますから、少くも今より三百七十余年前からあった説である事に疑はありません。其の文は三家者の位牌の書き方を示したもので、
連寂白馬開墳甲某草門霊ト書、云々。
白馬寺ト者、漢ノ明帝永平十一年ニ、従二西天一摩謄迦、竺法蘭ト云聖リ二人、四十二聖教小乗、十位結断大乗、負テ2白馬ニ1震且ニ来也。
其ヲ先ッ接ス2鴻鶴二1。
此内ノ寺ヲ号2白馬寺ト1。
鶏刕与2陽州1境也。
其後過テ2四百八十二年ヲ1、日本ノ仁王卅代欽明天王ノ朝、明安元年酉辛渡也。
漢土ニ而経テ馬ニ負テ死ス処ノ位牌ニ連寂草門ト書也。
此ノ門前ノ輩、連寂負テ2千駄櫃テ1、鶏刕与2陽州ノ1間ダ為テ2商売ヲ1而、関銭不レ出而、権門ニテ而通用スル也。
其類例ヲ云一三家者一也。
藁履作リ、坪立、絃差等也。
日本ニ而ハ坂ノ者也。
夫ハ者皮腐トテ、京九重ニ入レハ覆面ヲスル也。
是ヲ燕丹ト云也。
燕丹国ノ王ニテ坐スカ、楚国ノ王ニ追出サレテ、日本幡[播]磨ノ国へ越テ、我ヲ王ニセヨト仰セケレパ、日本ノ人物咲ニシテ突出ス間ダ、牛馬ヲ食シテ渡世ニル間、云レ爾也。
其末孫不ルレ有ラン振舞ヲ而テ過ル間夕、無窮ノ躰有ハ也。
三ヶ類例ト者、渡シ守リ、山守リ、草履作リ、筆結、墨子、傾城、癩者、伯楽等、皆連寂衆ト云也。
唐土トモ云。
是ヲ云2非人ト1也。
千駄櫃ノ輩トモ云也。
如レ斯非人ノ職人法度ノ掟目ハ、延喜ノ御門ノ勅定ノ従来リ始ル矣。
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とあります。可なり附会極まる、而も妙な文ではありますが、併し是によって、其の当時にいわゆるサンカ者なるものが、一方では連寂衆 (行商人) と言われ、非人とも、ヱタ(燕丹) とも呼ばれ居た事が明かで、其の類例としては、草履作、坪立 (一に秤作ともあり)、弦差 (祇園の犬神人など弓弦作り)、渡守、山守、筆作、墨作、傾城、癩者 (乞食)、伯楽 (獣医) の輩が数えられて居るのであります。袋中和尚の泥洹之道とは、泥洹即ち涅槃に入るの作法として、葬儀に関する事を述べたものでありまして、それには「三家者位牌事」の条に「三家ハ日本ニハ云二坂者一。取レ音呼レ訓故也」と、説明して居るのであります。即ち坂の者の語が上方訛りでサカンモノとなり、更に反転してサンカモノとなったと云うのであります。斯くの如き反転の例は他に幾らもあります。
坂の者とはもと浮浪民の一祖の名称です。地方にあって生活に安んぜざるものが、京都其の他の村落都邑に流れついて、場末の空地に小屋住居をなし、其の村落都邑の住民の為に警察事務に従事し、或は労力を提供し、或は遊芸其の他の雑職によって生活したのでありますが、それ等が其の住所の状況によって、或は河原者、坂の者、野の者、山の者、谷の者、原の者などと呼ばれたのであります。其の中でも殊に浮浪民の多く集った京では、賀茂川原の河原者、清水坂の坂の者が最も有力で、室町時代の記録を見ますと、彼等は通じて非人とも、ヱタとも呼ばれて居りました。或は所々の村落都邑散在しておるという意味でか、散所の者という名称も多くのものに見えて居りますが、やはり同じ仲間の者として見られて居たのであります。而して是等の浮浪民が、其の従事する職業からいろいろの種類に分れまして、又それにはいろいろの落伍者が流れ込みまして、前引三家者の類例という中に見える様な、種々雑多の者となりましたが、もとはそれ等のすべてを通じて三家者と云ったのであります。つまりは同じ流れの落伍者の末でありますから、職業其他が変って居りましでも、世間からはやはり同じ階級のものとして、ヱタも、非人も、連寂衆も、其の他前記の種々の職人たちも、通じて之をサンカ者と云ったのでありました。坂の者即ち浮浪民の義であります。然るに後世ではだんだんと其の名称が種類によって固定しまして、遊芸に走ったものが普通に河原者、或は河原乞食などと呼ばれ、現に浮浪生活を実行して居るものが、普通にサンカ者即ち坂の者と呼ばるるに至ったに外ならぬのであります。
右の次第でありますから、池田氏は其の素性に就いていろいろと深く考えて居られます様ですが、要するに彼等は同じ日本民族中の落伍者というに外ならぬのであります。
尚此の落伍者の沿革に就いては、私は是まで種々の機会に発表したものがありますが、それを簡単に八十頁ばかりの小冊子に纏めて、「融和問題に関する歴史的考察」と題したものを、東京市麹町区内幸町二ノ二中央融和事業協会から、定価八銭で頒布して居りますから、若しもっと突っ込んで知りたいとの御希望の御方々は、それをお取り寄の上御覧下されんことを御願いします。バット一個の御奮発で、現下の一重要社会問題なる同胞差別の忌わしき誤解が除去される事と存じます。社会奉仕の一端として私から御依頼致します。
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- 引用文献
- 喜田貞吉「サンカ者の名義に就いて」, 高志道, 5巻1号, 1939.
- 『サンカ──幻の漂泊民を探して』(シリーズ KAWADE 道の手帳), 河出書房新社, 2005. pp.159-161
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