Up 「ヒグマと遭遇したら」の論理 作成: 2024-12-10
更新: 2024-12-10


    ヒグマと出遭ったらき,どうするか?
    これには諸説がある。( 「熊と出遭ったとき」諸説 )
    しかし,その諸説を鵜呑みにする気には,とてもなれない。
    なぜか?
    それらが説く「こうせよ」は,
      こうやってうまくいったことがあったから,こうせよ
    に聞こえるからである。
    そう聞こえるので,「それはたまたまだろう」と返したくなる。


    本来,ひとの納得する形は,「理によって納得」である。
    そこで,理が求められることになる。
    このスタンスを,科学という。

    一方ひとは,生活においては「科学と疎遠」を流儀とする。
    即ち,「権威を頼む」を流儀とする。
    <考える>ではなく<信じる>が,ひとの流儀なのである。


    この流儀はあぶなくないか?
    そう,あぶない。
    ひどくあぶない。

    ひとは,自分が権威と見込む者の説く「ヒグマと出遭ったら」を信じる。
    そしてこれは,ひとはヒグマのことを考えることはない,ということである。

    ひとは,「ヒグマのことを考える」を,そもそも概念としてもっていない。
    これで困るのが,ヒグマである。
    殺されてしまうからである。

    なぜ殺されるのか?
    異形だからである。
    異形のことを考えない人間集団は,異形を殺す。

    よくよく吟味せよ。
    集団は,異形に対しては,これを殺すのである。


    ヒグマとは,つぎのように考えるものである:
      菅江真澄『蝦夷喧辭辨』(1789) の「5月22日」から:
    ‥‥ 人の入来ていふ、
    けふ山中のみちにて(シゝ)(ひぐま)にあひ、はからずもとびきて身はそこねたれど、いのちはまた(全)し。
    此島にかもしか、狼、ましら、猪のたぐひこそすまね、塵(鹿)と羆とはいと多けれぱ、この羆にのみをそれて、われも人も、野山の行かひはやすからず。
    さりければ、ひとり、ふたりの旅人は、行つるゝ友をまちていざなひ、あるは、人をたいのみ、さいだてて越ゆ。
    あら山中を、あがものがほに行めぐる蝦夷人すら、毒気の箭たぱさむならでは、やすげなし。
    しゝは三寸の草がくれとて、いさゝかの短きくさむらにでも、ふしかくろひて、身をひそむのじち(術)あるけものなり。
    まして夏草たかう茂りあひては、しゝの出たりしとも、さきにすゝみたるか、とゞまりたるか、しぞきたるか、そこと行衛しられじ。
    はた、しゝに、ふとゆきもあはゞ、ゆくりなうおどろきて、いとゞたけう、あれふるまはん。
    かゝるをりには、気も心もたましゐもうせなん。
    さりけるときは、しゝまづこゝろをしづめ、ほぐすの火うちいで、けぶり吹て、何げもなう休らひ居ば、しゝはにげさりぬとか。
    こや、もろこしの虎にひとしく、しゝも、をそれざるものををそるゝのくせあり
     ‥‥‥
    夷くにの山中わくるかち人は、かゝることなども、こゝろづかひすべし
    と語りける ‥‥‥


    「ヒグマと遭遇したら」が,理を以て,説かれている。
    即ち,「ほぐすの火うちいで、けぶり吹て、何げもなう休らひ居」。

    「自分を恐れない者を恐れる」は,科学の知見である。
    動物は,これを実践的に用いている。
    ──これを用いないとはどうなることかを,想像せよ。

    ヒグマは,自分から逃げる者を追う。
    これは,「反射」とか「本能」で説明することではない。
    相手が自分を恐れる者──したがって,自分より弱く,餌食にできる者──であることがわかったので,追うのである。


    「自分を恐れない者を恐れる」は,体の大きさと関係ない。
    実際,ひとは,自分を攻撃してくる虫がいたら,それを大いに恐れることになる。

    ギャングも,自分を恐れない者が相手だと,何かとんでもない殺人技でも秘めているのではないかと危ぶんで,容易に手を出すものではない。
    そして,逃げる相手には,安心して追う。

    「自分を恐れない者を恐れる」は,理 (科学的命題) なのである。