Up | 何をすることがモデルをつくることか?──「自然数のモデル」で考える | 作成: 2011-10-06 更新: 2011-10-07 |
この使用に構造を見て,これを数学にしようとする。 到達した形が,つぎの定義である: ここで,自然数の系の定義におけるつぎの設定は,「系列」という形を定めている条件をそのまま (但し,上手に還元して) 示したものである: これに対し,条件3゜(「数学的帰納法」) は異質に感じられる。 条件3゜が求められるのは,系列の無際限に続く項に対して,一般命題をつくらねばならないからである。 特に,日常の自然数の計算でアタリマエにしている算法の結合法則,交換法則を,一般命題として保証しようとすると,3゜のような条件の導入が必要になる。 3゜の導入は,算法の結合法則,交換法則等をいちいち自然数の条件として定めていくよりは,はるかに気の利いたものになっている。 納得できる内容 (「ドミノ倒し」のロジック) であり,そして射程が広い。 実際,3゜の導入によって,算法の法則は定理 (真であることが証明される命題) になる。 数学は,「これは自然数だ」「これが自然数だ」を言わない。 数学は,つぎのような言い方しかしない:
数学は,自然数をつくって示すことを,自分の仕事とはしない。 なぜか? 数学をはみ出てしまうからである。 自然数をつくる論は,超数学になってしまうのである。 自然数をつくることは,数学の自然数のモデルをつくることと見なせる。 しかし,自然数をつくるとは,何をどこまですることなのか? これを,ここで問題にする。 日常生活の「1, 2, 3, ‥‥」は,数学の自然数の出自である。 この「1, 2, 3, ‥‥」は,,生成文法の方法を用いて再現できる。 すなわち,系列「1, 2, 3, ‥‥」の定義と,この上の算法の定義を,生成文法で書くことができる。 しかしこの場合,算法の結合法則,交換法則のような一般命題は,<成り立つこと>として示すことはできない。 このことに対し,つぎの問いが立つ:
「モデルはこんなもんだ」と思うべきか 《「こんなもんだ」と思うべき》の考え方は,《これで日常生活の「1, 2, 3, ‥‥」が過不足無く再現されている》である:
《「不足」と思うべき》の考え方は,「不足」を埋めるために,つぎをセットにした理論をつくろうとする: このとき頭を悩ますことになるのは,公理を何にするかという問題である。 結合法則,交換法則を公理にしてしまうのは,ご都合主義の感がある。 実際,「任意の数に対し」を言えるためだけにする公理の導入である。 「1, 2, 3, ‥‥」をつくった上で,なぜさらに「任意の数に対し」をやらねばならないのか? そもそも,「1, 2, 3, ‥‥」をつくったということは,「数が具体的に与えられるようにする」ということではないか。 そして,具体的に与えられた数に対し,結合法則,交換法則は成り立つのである。 しかも,この理論づくりは何のためか? すなわち,理論ができたとして,これの機能は何か? 実際,「1, 2, 3, ‥‥」の形式は,既に数学が「自然数」の主題で回収し明示しているのである。 この上,なぜ理論が必要なのか? |