Up はじめに 作成: 2014-11-23
更新: 2014-11-24


    わたしの現職は,北海道教育大学札幌校の「数学教育学」専門教員である。
    但し,今年度を終えて退職となる。

    わたしは,退職を以て「数学教育学」から足を洗う。
    さて,このことは,「数学教育学」を専門にする者としてわたしがこれまで行ってきたことが,わたしにとって無になるということ?

    とはならないようだ。
    これから余命を生きるわたしのカラダだが,これはこれまでのカラダの運動がつくってきている。
    そしてこの運動のうちに,「数学教育学」を専門にする者としてやってきた修行がある。

    そこでつぎが,わたしの一生スパンでの「数学教育学」の意味となる:
      《「数学教育学」は,わたしのカラダをつくるためのもの》
    「数学教育学」は階段だということである。
    上ったところで捨てることになるものである。

    翻って,
      《わたしにとって,「数学教育学」は数学教育学である必要はない》

    では,「数学教育学」の修行は,どんなふうにカラダづくりになったのか?
    どのようなカラダづくりになったのか?
    自分が「数学教育学」を専門にする者であったことの総括として,この論をつくることにした。


    本テクストは,つぎのテクストと合わせて,わたしの「数学教育学」の総括/集大成になるものである:
    わたしは,集大成を考えるようになってきてから,「修行は形(かた) に至って終わる」という思いを強くしてきた。 『マクロ数学教育学』は,わたしが至った「形(かた)」である。
    そして,本テクストは,わたしの実践の総括である。