Up 授業がわかる 作成: 2014-11-26
更新: 2014-11-30


    「数学教育学をするカラダ」づくりは,「授業がわかるカラダ」づくりを含む。

    「授業がわかる」には,いろいろな意味が含まれる。
    実際,概念分析すれば膨大な量の下位概念が導かれる。
    そしてその意味の各々に対し,「カラダづくり」が考えられてくる。


    例えば,「授業がわかる」のうちに,「授業を見て取れる」がある。

    素人が授業を見るとき,目に入ってくる授業はノイズである。
    「ノイズを適切な意味に回収できる」は,「授業を見て取れる」の一つである。
    また,「授業を見て取れる」は,「授業を相対的に見て取れる」である。
    「相対的に見て取れる」には,「知らなかったことを知る」「発見」も含まれる。

    「授業を見て取れるカラダ」は,どのようにつくっていくことになるか?

    当然,「授業を数多く見る」がある。
    また,これも当然のことだが,「見る」が「見て取る」になるためには,カラダがノイズを意味に回収するふうになっていなければならない。 (認知科学だと,これを「概念枠組/シェマに回収」と説いて,「概念枠組/シェマが備わっていなければならない」と表現するところである。)

    一般に,「経験する」は「経験が経験になる」であり,さらに「経験をカラダが経験にする」である。
    そして,「経験を経験にするカラダ」づくりということになると,あらゆることが修行項目に考えられてくる。

    「授業を見て取れるカラダ」は,つぎのように成長する:
      はじめのうちは,瑣末にとらわれて,授業の肝心・要所をとらえられない。
      だんだんと,肝心・要所がわかり,瑣末を捨てられるようになる。
      さらに,「意識してやる」「努めてやる」が無くなる。
      即ち,カラダが<授業を見る>をやっているふうになる。

    なお,ここで注意すべきことして,「授業を見て取れる」が一般能力のようにあるわけではない。
    「授業を見て取れる」を一般能力のように想うとき「授業の見方」のことばが出てくるが,「授業の見方」という一般形式があるわけではない。
    授業は,主題・領域・分野等の個別に応じて,個別である。
    「授業を見て取れる」「授業の見方」も,これに応じて個別になる。




     『算数・数学科授業作法』