Up 「枠組」について 作成: 2015-02-26
更新: 2015-02-26


    大学院生は,論文づくりで,枠組にとびつく。
    取り組みやすく見えるためである。
    「先行研究」「引用文献」が,最初に出来上がってしまう。
    やることも,枠組への授業の流し込み (「枠組あてはめ」) ということで,単純・明解になる。

    しかし,この論文づくりは,その中で本末転倒を犯すことになる。


    枠組は,授業実践とは無縁のものである。
    実際,枠組は,リアルな授業から導いているのではなくて,ことばの含意関係をなぞってつくっている。
    端的に,机上の産物である。

    わかりやすい例は,「問題解決ストラティジー」である。
    これは,授業を知らなくてもつくれる。
    日常言語をテクストにしてつくれてしまうものである。

    日常言語は,壮大な論理体系である。
    長い時間の中で培われ磨かれ淘汰されて,この壮大な論理体系が出来上がった。
    これを用いていることは,既に大論理学者になっているということである。
    われわれは,大論理学者である。

    枠組づくりは,やっていることは《ことばの含意関係をなぞって,その関係を構造図にする》である。
    数学教育学だと,これは「研究」になる。「論文」になる。
    枠組論者は,これをやっている。
    ここで,「やっている」は,「自覚せずにやっている」である。
    ──自覚していたらやらないわけであるから。


    枠組は,リアルな授業から導いているのではなくて,ことばの含意関係をなぞってつくっている。 よって,これをリアルな授業にあてはめようとすると,「あてはまらないぞ!」になる。

    論文づくりの大学院生は,この事態にどう応じるか。
    授業を,枠組にあてはまるものにつくろうとする。
    これが,冒頭に述べた「本末転倒」である。

    大学院生は,まだ権威を疑わないことにおいて,授業で教師を疑うことのない生徒と同じである。
    生徒は,教師を疑うよりは,自分を曲げることの方を択ぶ。
    大学院生は,枠組を疑うよりは,授業を曲げることの方を択ぶ。

    これは,「理論に振り回される」の体(てい) である。