Up 要 約 作成: 2012-10-17
更新: 2012-10-17


    教員は,授業力が低く,そしてずっと低いままである。
    理由の第一は,授業力陶冶の方法を知らないためである。
    あるいは,その方法を示されても,これを軽んじて行わないためである。

    授業力陶冶は修業である。
    修業の方法は,「形(かた)を修める・極める」である。
    授業は,生徒を<わかる>に到達させるプロセスである。 (理にかなったプロセスでなければ,<わかる>は実現されない。) そして,理にかなったプロセスは,自ずと形(かた)を表す。

    その形(かた) は,「導入・展開・まとめ」である。
    授業力陶冶の修業は,「「導入・展開・まとめ」を修める・極める」である。

    修業は,なぜ形(かた) の修業なのか?
    形(かた) を行うことが,自分の稚拙・未熟を自分自身に対し現すことになるからである。
    形(かた) とはそういうものである。

    自分の稚拙・未熟は,形(かた) を行うときの自分の稚拙・未熟として捉えるふうになる。
    《形(かた) を通して自分の稚拙・未熟を捉える》をしていることが,伸びしろがあるということである。
    これをしていないことが,伸びしろがないということである。

    一方,形(かた) の修業は,遅々とした歩みになる。
    教員の授業力が低くそしてずっと低いままである理由の第二は,教員が「導入・展開・まとめ」の修業に取り組む者であっても,その修業が遅々とした歩みである他ないためである。


    教員は,「導入・展開・まとめ」を知らず,知ってもこれを行わない。
    こうなるのは,「導入・展開・まとめ」を軽んずる風潮・風土の中に教員が置かれているからである。
    そして,「導入・展開・まとめ」を軽んずる風潮・風土をつくっているものの屈指が,実に学校数学の「改革」運動なのである。

    実際,現前の「改革」運動──行政がつくり出す運動,出口論主流がつくり出す運動──は,学校数学という系の励起を意義とするものである。
    系が現前するとは,系が己を保つメカニズムを内包しているということである。 このメカニズムは,系の励起運動のメカニズムである。
    「改革」運動はこの励起運動であり,系に対し「経済効果」を生むことを第一義とする。
    「経済効果」が第一義ということは,学校数学の常道は何かという問題は二の次ということである。


    授業力の低い教員の授業は,どんなふうになるか?
    余計・無駄をやって肝心をやらない」になる。

    教員は,経験年数を重ねるにつれ自分の授業力が向上しているように思うが,授業力は向上していない。
    すなわち,「肝心をやる」は向上しない。
    向上するのは,「余計・無駄をやる」の方である。
    それは,「余計・無駄をやる」の洗練度の向上である。
    そしてこの「向上」は,(「授業力の向上」ではなくて)「授業に対する慣れ」の内容になるものである。

    教育実習生の目には,教員の授業は巧く見える。
    しかしその巧く見えるものは,「授業に対する慣れ」である。
    授業を知らない者の目には,「慣れ」が「授業力」に見える
    しかし教員も,この錯覚をする者なのである。