Up | おわりに | 作成: 2012-10-20 更新: 2012-10-20 |
この論考の要諦は,授業力が低いことを良い悪いの問題にしないことである。 授業力の低さは,修業がこれを改善していく。 その修業は,授業の形(かた) である「導入・展開・まとめ」の修業である。 しかし,この修業は今日行われない。 修業が行われないことが,確固とした現前として存る。 「授業力」を論考するときは,この「確固とした現前」の捉えが重要になる。 「確固とした現前」ということは,改められるためにそれが存るのではないということである。 ある摂理をそれが現しているということである。 考えられることは,教員は本来的に授業力向上を指向するものとして存るのではないということである。 授業力向上の指向が教員全体に遍く状態は,定めし,学校教育がおかしくなっている状態なのである。 学校教育は,一つの系である。 系の現前は,系の<定常均衡>の相である。 <定常均衡>を攪乱することは,系の破壊に通じる。 もっとも,系は破壊されまいと抵抗し,結局復旧を遂げるわけである。 授業の形(かた) の修業が行われても教員全体のうちのほんのごく一部という現前は,これが学校教育の<定常均衡>の要素になっているということである。 これの攪乱は学校教育の破壊に通じ,そして学校教育は系として破壊されまいと抵抗し,どのみち復旧を遂げる。 教員の授業力が低くそして低いままなのは,これが<定常均衡>の実現だからである。 こうして,「算数・数学科は教員の授業力が低い」の本論考は,算数・数学科の存在意義の論考と連なるものになる |