Up | 授業力形成は,「風化造形」 | 作成: 2012-10-12 更新: 2012-10-20 |
教員は,長く教員をやっている者も,授業は「余計・無駄をやって肝心をやらない」である。 教員はいつまでたっても授業の素人というわけである。 肝心をやるのが,授業力である。 授業力は,修業によってつける。 授業者の道は,修業道である。 修業の到達点は,形(かた) である。 修業を方向づける意識の形は,「形(かた) を修める」「形(かた) を極める」である。 修業の形は,形(かた) の実践である。 そして,算数・数学科の教員の「形(かた) の実践」は,「導入・展開・まとめ」の授業形の実践である。 この修業の道は長い──いつまでも「形(かた)」の境地に到れない。 どうして? 形(かた) の形成は,いわば風化造形である。 風化造形は,直接これをつくろうとしてつくれるものではない。 先ず,土を積んでいく。 堆積を風雨に曝す。 長い年月をかけて,風化造形が現れる。 結果として見れば,せっせと積んだ土の大部分は余計・無駄なものになっている。 風雨に流されてしまい,いまは無いものである。 しかし,やがて無くしていくものをせっせと積むことがなかったなら,造形もなかったわけである。 余計・無駄は,肝心に至る必要事なのである。 余計・無駄を跳び越えて肝心に至ることはできない。 「修業の道は長い──いつまでも「形(かた)」の境地に到れない」とは,長い余計・無駄の期間を経た果てに肝心がやってくるということである。 修業の道は長い。しかし,この道を引き受けている教員は,授業者としての伸びしろのある教員である。 逆に,形(かた) の修業として「導入・展開・まとめ」の修業をやっていない教員は,伸びしろのない教員である。 そしてこのとき,現前の教員は,伸びしろのない教員ということになるのである。 |