Up 教員は,「導入・展開・まとめ」をやらない 作成: 2012-09-28
更新: 2012-10-20


    「授業力をつける」を自分の課題としていない教員は,いるはずもない。
    授業力のない教員とは,授業力をつける方法を知らない教員のことである。
    このうちには,いまの自分の授業の形に慢心している者も含まれる。

    授業力は,修業して得られていくものである。
    修業は,修業道を歩むことである。
    修業道のゴールは,形(かた) である。 「形(かた) を極める」が,修業の意識の形である。
    そして,授業力をつける修業における「形(かた)」は,「導入・展開・まとめ」である。

    しかし,教員は,「導入・展開・まとめ」を行わない。
    教員は,「導入・展開・まとめ」を「形(かた) を極める」の「形(かた)」として捉えてはいない。
    教員は,「導入・展開・まとめ」を初心者コースのように思っている。
    あるいは,授業オプションのように思っている:
      「導入・展開・まとめ」はやろうと思えばいつでもできる。
      やるかどうかは,ケース・バイ・ケース。
    「導入・展開・まとめ」をせず,輪郭のボヤッとした授業,形のない授業をする。
    そして,輪郭のボヤッとした授業,形のない授業をしていることを,自分が融通無碍なレベルに達しているかのように錯覚している。
    事実は,その授業は「何の授業かわからない授業」である。


    「導入・展開・まとめ」は,教員が思っているのとは正反対のものである。
    強調するが,これは「形(かた) を極める」の「形(かた)」である。
    教員がやろうと努めてもできないものである。

    形(かた) とは,それを行えば自分の稚拙・未熟が現れるようにつくられたものである。
    「導入・展開・まとめ」を行うことは,教員にとって自分の授業力の無さをはっきり暴露することである。
    例えば,「導入」の「主題がどのようなストーリーの中に位置づくものかを示す (「主題の意味」)」を行うことは,自分が主題をわかっていないことを暴露することである。

    教員が「導入・展開・まとめ」を行わないのは,自分の授業力の無さの暴露が嫌だからである。 そして,合理化の心理が,自分をつぎのような考え方をする者にしていく:
      やろうと思えばいつでもできる,やらないだけだ
      「導入・展開・まとめ」は,初心者レベルだ


    「導入・展開・まとめ」が行われないことについては,つぎの場合も考えに入れておく必要がある:
    1. 「導入・展開・まとめ」を知らない
    2. 思想的立場から,「導入・展開・まとめ」が却けるものになる

    a.「導入・展開・まとめ」を知らない
      学校教員養成課程で「導入・展開・まとめ」を教えられなかった学生は,「導入・展開・まとめ」を知らないで教員になる。
      その後も「導入・展開・まとめ」を教えてくれる者が現れなければ,「導入・展開・まとめ」を知らないままとなる。

    b. 思想的立場から,「導入・展開・まとめ」が却けるものになる
      学校教育の思想のうちには,「教える」を罪悪視するものがある。 (「学び」を唱える思想は,これである。)
      「導入・展開・まとめ」は「教える」の形(かた) であるので,この思想においては却けるものになる。