Up | 修業は,歩みの遅々たるもの | 作成: 2012-09-20 更新: 2012-10-20 |
教員の授業力は,修業の形がなっていても,はかばかしくは向上しない。 教員は,ずっと,授業力が低いままである。 そこで,つぎのようになる:
なぜなら,一般者は (実は教員も含めて),《授業力ははかばかしく向上しなくて当然》という認識をもたないからである。 「授業力は,はかばかしく向上しないのが当然」の認識がもたれていないと,どうなるか? 授業力の低さを,意識・意欲の低さのせいにする。 授業技術を知らないことのせいにする。 そしてそこから,「教員の授業力の低さに対するソルーションは,意識改革と研修制度!」の考えに行ってしまう。 「改革」の気運の醸成は,簡単である。 そして,「改革」の気運は,「改革」の気運で終わる。 授業力のほんとうの向上については何も形を残さないで,終わる。
職業柄ずっと「教育改革プロジェクト」というものを見てきて,そして自分でもいろいろやってきて,このように言うのである。 特段の公平感を以て,このように結論するのである。 「改革」は,「改革」を何度か経験することによって,その意味・機能・機序がわかってくる。 「改革」の意味・機能・機序がわかってくると,「改革」には飛びつかなくなる。 「改革」に飛びつくのは,「改革」に新しく出会う者たちである。 「改革を行う者は,若者・よそ者・ばか者」は,まさに言い得たことばなのである。 授業力は,修業の形がなっていても,はかばかしくは向上しない。 経験の浅い教員は,自分の授業力の弱さをほんとうのところ認識できない。 自分の授業力の弱さは「授業の難しさ」というかたちで思うところになるのだが,定年間近になった教員がきまって「今頃になってようやく,少し授業がわかってきた」のことばを吐くのは,授業力の意味は経験を積むほどにわかってくるというものだからである。 修業の歩みが遅々としたものになることは,「職人」を考えると理解しやすい。 (実際,教員は「職人」である。) 職人は,ずっと修業の身であり,そしてはかばかしく上達しない。 何を修業しており,何がはかばかしく上達しないのかというと,<素材がわかる (「見える」)>を修業しており,そしてこれがはかばかしく上達しないのである。 石職人の場合,新入りに「この石をしっかり見ろ」と言っても,新入りは「見る」がどういうことなのかわからない。 素材をいじらせれば,素材に関係なく自分の思いを行う。 素材を無駄に扱い,さらには壊す結果となる。 素材が見えるとは,素材に自分を添わせることができるということである。 そして<素材に自分を添わせる>を通じて,素材の価値がわかるということである。 「見る」の意味は,「現れていないものを見る」ではない。 見るべきものは,現れている。 しかし,現れているのに見えない。 現れているものが見えるようになるのは,修業の賜ということになる。 授業において教員は,生徒と主題の二つを「素材」とするところの「職人」である。 生徒はそこに現れているが,教員はこれを見ることができない。 主題はそこに現れているが,教員はこれを見ることができない。 生徒の方は,教職経験を積んでいくことで,その分,だんだんが見えるようになる。 そして定年間近になって,「今頃になってようやく,少し生徒が見えるようになってきた」の実感を持てるほどになる。 一方,主題は,教職経験を積んでいくことでだんだん見えるようになるというものではない。 定年間近の「少し見えるようになってきた」も,主題の場合は到達困難である。 職人の修業に近道はない。 教員職の修業に近道はない。 教員はずっと授業力が弱いままである。 授業力の弱さは教員の宿命である。 生徒は無駄に扱われ,ときに壊される。 このことに対し生徒の「不幸」を読むのは,当たらない。 素材として無駄に扱われることは,人・物の普通のあり方である。 子どもだからといって,特別扱いとはならない。 実際,「教員の授業力の低さ」は,「子どもを特別扱いしたくとも能力的にできない」を含意する。 ──<無駄に扱う>のレベルでは,まだ警鐘を発するにはならない。警鐘を発することになるのは,深刻に<壊す>が現れたときである。 |