Up | 「数学を勉強する」の疎外 | 作成: 2015-12-11 更新: 2016-02-06 |
疎外には,つぎの2通りがある: 科学の歴史には,優れた研究が経済・政治・軍事に回収される話がいろいろあり,ときにそれが科学者の転落のように語られる。 これは,a のわかりやすい例である。 b は,まさに学校数学が格好の例になる。 「数学を勉強する」は,最初から学校数学に取り込まれる。 「探索」としての「数学を勉強する」が発現しにくい構造になっている。 aは,疎外の当事者に,自身の「疎外」を意識できる余地がある。 bは,疎外の当事者に,自身の「疎外」を意識できる余地がない。 たとえば,人は商品経済の中に生き,商品経済の中に生きるしかない存在であるが,自分の生が最初から商品経済に回収されているふうに生まれてくるわけなので,「商品経済」という疎外を意識することがない。 「そんなことはない,自分は意識している」と言う者は,どこかで「商品経済=疎外」の主題を学習したことのある者であり,そのことが無意識になっているのである。 <学校数学による「数学を勉強する」の疎外>の顕著な例が,「数学的○○」である。 「数学的○○」は,<学校数学による「数学を勉強する」の商品化>である。 「数学的○○」は,「商品経済に回収」型疎外が,最もよく見える場合である。
現前の「数学教育」は,商品経済の人材の育成を生業う。 そしてこれは,「人材」の内容を「数学的○○」に解釈する。 「数学」を「数学的」に替え,人材商品価値に回収しようとする。 「良質な人材商品に自分がなるための務め」が,数学の勉強の意味になる。 現前の「数学的リテラシー」は,グローバリズムが人材商品価値の指標にされている。 グローバリズムは,「重商主義」「植民地主義」の現代版である。 「数学的リテラシー」は,<学校数学による「数学を勉強する」の商品経済への回収>の極みである。 商品経済の学校数学の進化は,「数学的リテラシー」を以て,つぎに極相に至った。 ただし,<商品経済への回収>を構えにしていることは,<商品経済への回収>が実際にできるということではない。 「数学を勉強する」は,<商品経済への回収>を構えにした学校数学から,離れる。 「数学的」は,好奇心/知的欲求と無縁である。 探索と無縁である。 「数学的」は,つまらないものである。 「数学を勉強する」は,「つまらない」を生業にすることになってしまった学校数学から,離反する。 「学校数学による「数学を勉強する」の商品経済への回収──「数学的○○」」の一般的主題は,「遊びの疎外」である。 遊びは,独自──自分のもの──である。 一方,商品経済は,すべてを商品化するダイナミズムとして,遊びも商品化する。 遊びの商品化は,遊びが別モノになることである。 遊びが自分のものでなくなるこの位相を指すことばは,「疎外」である。 |