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中沢新一(2005), pp.20-25.
‥‥ 空海が自分のことを最後まで,「沙門」と言っていることの意味 ‥‥
(中略)
こうしてインド人の宗教は、自然のなかで修行をする人々と、都市の宗教者とに大きく二分されたのです。
このことは中国ではもっとはっきりしています。
道教と儒教の対立としてあらわれたものが、自然と都市の対立に照合しています。
都市の原理と野生の原理が、宗教の領域で対立しあっているわけです。
その本質は何かといえば、自然の原理に立つものは神話的な思考を維持しようとしたことにあります。
神話的思考は生と死を分離しません。
ところが都市の思考は生と死を分離します。
死に関する穢れた要素は都市の「外」へ排除しようとしますから、都市の周辺にはそういうものの残滓が残って、そこに悪や汚れを体現する半-神たちが活動することになるわけです。
都市の構成原理から死の領域を「外」へ出しておいて、それを象徴として、つまりは概念やイメージとしての自然を都市の「内」へ組み込むことをしました。
近代文学の場合とよく似ていますね。
たとえば近芸術における崇高の概念、美の概念などの場合、いったん都市の外、自然の領域に追い出しておいた概念化できなかったものをあらためて象徴として内に取りむことがおこなわれています。
都市の宗教はそれと同じことするのです。
象徴のかたちで死を自分の内部に取り込もうとする。
密教は一面ではあきらかに都市宗教としての典型的な特徴をもっています。
じっさい空海の場合などでも、京都のはずれにあたるところに鎮護国家のための東寺を建てています。
東寺には,都市の内部に取り込まれた崇高な自然のイメージが満ちていますが、それを象徴するのが曼荼羅です。
曼荼羅というのは、ある意味では内部に取り込まれた自然であり都市的な原理によってはコントロール不可能な自然をいわば美的に昇華した表象です。
それを都市のなかに取り込んで、全体性の幻想をつくりだす装置として働く、という側面をもっています。
空海はそれにあきたらないものを感じていた。
最澄の場合には、比叡山はいちおう山でありますけれども、古くから京都の周縁としての意味をもち、あきらかに都市の一画としての機能を果たしていた場所です。
そして空海はそこにとどまってはいなかった。
空海は晩年に至って高野山に入ります。
そのとき彼の意識のなかには「沙門」という言葉がまざまざと甦ってきたのでしょう。
つまり空海は、人生の最期において、都市機能のなかに組み込まれない未来の密教を開こうとしたのだと思います。
それは空海が人生の最初の時期に立った場所でもありました。
(中略)
‥‥ いったんは権力に近づきながらも、ついには山の宗教者に戻っていった ‥‥
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- 引用文献
- 中沢新一 (2005) :「最後の空海,未来の空海」
『空海──世界的思想としての密教』, 河出書房新社, 2006, pp.16-31.
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