Up 当て込みで「修行」を立てる 作成: 2018-06-09
更新: 2018-06-09


    仏教の修行は「成仏」の修行ということになる。
    「成仏」の内容は,なにがしかの意味での「自然の理」の覚りである。

    自然の理は,「覚る」というものではない。
    実際,「科学」が,アプローチの方法である。
    「成仏」は,内容の無いことばである。


    「成仏」の修行道は,「成仏」者を出すことがなくて成立しているものである。
    どうしてこれが成立するのか。

    先ず,「成仏」の発心は,騙されて発心する。
    騙されるのは,未熟な者である。

    この者は,修行を経験していく中で,「成仏」が内容の無いことばであることに気づいていく。
    しかし,気づいたときは,組織の中で指導的な立場になっている。
    成仏を信じて修行している生徒に対し,「成仏など無い」は言えない。
    そして「成仏」の否定は,「成仏」を説いている経典の否定になってしまう。
    こうして,引っ込みがつかない(てい)から,騙す者になる。

    この「<騙し>の新陳代謝」が,組織維持のメカニズムになっている。
    よって,「成仏」は,題目であるだけで十分なものなのである。



    空海も,この轍を踏んだ者である。
    中国密教に出会い,「これだ!」と思う。
    しかし,期待していたことは起こらない。
    そして,世事に埋没する者になっていく。


    ちなみに,仏・経典を退けてしまうやり方も無いわけではない。
    禅の臨済などは,これをやる。
    しかしこのときも,組織維持のための「<騙し>の新陳代謝」装置は必要になる。