Up 科学をスキップして現成論を先取りするのが,宗教の役どころ 作成: 2015-05-23
更新: 2015-05-24


    現成論は,はた迷惑な行為をひとにさせないために説かれるものである。
    即ち,自分は理についていると自惚れる者が,自分の理を通そうとして,はた迷惑な行為をやり出す。 この者に対する説教は,「現成」の説教である:
      「 現前は,複雑系のその都度の均衡相である。
    この均衡メカニズムは,人知を絶する。
    人が理を立ててする行動は,幼稚な理の行動として,この複雑系のメカニズムから報復される。
    ここで,報復を受けるのは,その行動に巻き込まれるすべての者である。
    ──これが「はた迷惑」の意味である。」

    この「複雑系のメカニズム」の説教は,古来,宗教が担当してきた。
    実際,「複雑系のメカニズム」の科学がもたれていないところでは,「複雑系のメカニズム」は形而上学である。形而上学の担当を役どころとしてきたものは,哲学・宗教である。
    ここで,哲学は,ひとに伝わることばを話せない (ことばに対する誤解──失語症!)。
    「ひとに伝わることばを話してナンボ」をやってきたのが,宗教である。
    こうして,「現成」の説教は,宗教が自分の役どころとしてきた。

    宗教には,「非科学」の批判が立つ。
    しかし,宗教は,自ら進んで科学をスキップしていることになる。
    実際,科学の足取りは,話にならないほど遅々としたものである。
    「複雑系のメカニズム」の論は,科学では永遠につくられない。
    よって,「複雑系のメカニズム」の論は,科学をスキップしてつくるのみである。
    宗教はこれをやってきたことになる。


    宗教のする「現成」の説教は,どのような物言いをするか。
    つぎのような物言いをする:
      「 災難に逢ふ時節には災難に逢ふがよく候。
    死ぬる時節には死ぬがよく候。
    是はこれ災難をのがるる妙法にて候。

     (良寛)
      「 天網恢々,疎にして漏らさず。
     (老子)
      「 復讐するは我にあり。
     (新約聖書(ローマ人への手紙・第12章第19節) )

    しかし,この物言いにおいて,,宗教の「仏・神」は,「仏・神」である必要が無くなる。
    実際,このときの「仏・神」は,「物の理」 (「物理」) の言い換えである。
    あるいは,「物の理」を<誰かの営為>に見立て,その誰かに与えた称号が「仏・神」である。

    「仏・神」は,人に「物の理」の見方をもてるようにするための,方便である。
    特に,宗教は,「救済」とは無縁のものである。
    実際,宗教は,「仏・神」を「物の理」として説く位相において,「救済」とは関係のないのものになる。 現前を「物の理」として説くことは,「現成」を説くことであり,救済を欲する者の困窮は理に則っていると説くことだからである。

    こういうわけで,宗教者の良質なテクストは,「物の理」を考えるテクストして,無宗教の者も付き合えるものになる。
    本サイトでは,「現成論」の例として特に
      道元:『正法眼蔵』「現成公案」
      カール・バルト:"Die gorße negaive Möglichkeit"
    を取り上げるが,それは「物の理」の考え方の例として取り上げるのである。