Up | 輿論の装置をつくる | 作成: 2007-08-21 更新: 2007-08-21 |
この意味で,学長絶対制の国立大学では,内部的に輿論が死ぬ。 輿論が死ぬとき,陰でひそひそ文句をたれるような情けない状況になっていく。 輿論の衰弱と強権は,悪循環する。 この悪循環の先にあるのは,寡頭独裁と官僚組織が結合した一種スターリン体制。 これを望まないのなら,「輿論が自らを現す場」の構築に組織あげて意識的に取り組むことが必要になる。 この構築作業は,つぎのものを内容とする: 「<輿論が死ぬ>構造の研究」の第一義は,「なぜ輿論が死ぬのか?」という問題自体を立てること。 ──ひとは,<輿論が死ぬ>に無意識でいて,輿論の死滅を自ら招く。 <輿論が死ぬ>構造の要素になるものは: つぎに,「<輿論が自らを現す場>の装置の開発」について。 強権と輿論の関係は,どのようなものか? 悪者が強権に加担するというのではない。 強権の危うさを感じながらも,「運命共同体=保身」の力学で強権に加担する。 当人にも不安はあるわけだ。 そして最も不安を感じる者が,執行者。 この執行者が不安解決のために採る方法は,2通り。 一つは,反対者の弾圧・粛正。──根底に「前衛党独裁/選良指導」の「革新」イデオロギー。 もう一つは,自分が進めていることの是非をチェックできる装置・ダメ出ししてもらえる装置として,反対論・輿論を自ら求める。──デモクラシーが想定する「理性的方法」。 こういうわけで,<輿論が自らを現す場>の装置は,強権の側に立つ者にとっても,本来 (すなわち「理性的方法」に立っているならば),望まれるものになる。 ちなみに,強権のジレンマは,自分は己を映す輿論を必要としているのだが,ひとは強権に terror を見て黙してしまう,ということ。 「いてまえ」でやってしまったことをそろそろ反省するようになった頃にはもう遅い,となるわけだ
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