Up | 担当教員は, 「私語」の意味を捉え損ねる | 作成: 2012-01-28 更新: 2012-01-28 |
授業は,「聴く」ことの強制である。 授業がよければ,学生はこの強制を受け入れる。 授業が拙ければ,この強制は学生にとって耐えられないものになる。 授業が耐えられないという理由で授業にストップをかけるのは,反社会的行為である。 すなわち,つぎのカラダをつくることは,この社会での「成長」の含意である:《授業が耐えられないという理由で授業にストップをかけることは,反社会的行為としてこれを忌避する》 そこで,聴き手は,話し手を自分からシャットアウトすることを,身を保つ方法にする。 耐えられないので,シャットアウトするわけである。 シャットアウトの方法は,目を閉じ耳を閉じるとか,そのまま居眠りに進むとか,私語をするとか,である。 ここで,「聴く権利・教育を受ける権利の侵害」の論法で,私語が封じられる。 聴き手に残された方法は,<目を閉じ耳を閉じる>ないし<そのまま居眠りに進む>である。 しかし,<そのまま居眠りに進む>は,「居眠りをするとは何事だ!」が,強くあるいはやんわりと言われることになる。 また,この授業では,<目を閉じ耳を閉じる>もできない。 それは,授業の時間内に授業感想レポートを作成することが,学生に課されているからである。 質疑の時間が最後に用意されていることは,学生の罷業をつぶした代償にはならない。 授業は,完遂されたからである。 授業は,つぶされずに済んだ。 授業は私語でつぶれるが,質疑ではつぶれない。 この科目は,いろいろな点で,あぶない授業である。 この科目をプロデュース・コーディネートした者は,意識的あるいは無意識的にこのことがわかっていて,授業が潰れることのない方法を巧妙に作り出した。 教科教育法では,授業がつぶれるのを教師の問題にする。 つぶすことがその授業にふさわしいことなら,生徒は授業をつぶしてよいということである。 そのつぶしが,教師教育になる。 教員は,つぶされて成長する。 これは,大学の授業についてもあてはまるものであるが,一般にはそう受け取られてはいない。 強調するが,生徒の私語は,生徒が授業をつぶしにきているということである。そしてそれは,つぶされることがその授業にふさわしいということである。 この科目は,授業開始のときも,生徒の私語がなかなか収まらない。 一般に,「授業開始の際,生徒の私語がなかなか収まらない」の意味は,「《授業開始の際,生徒の私語がなかなか収まらない》が,この科目にふさわしい」である。 科目が,「《授業開始の際,生徒の私語がなかなか収まらない》が,この科目にふさわしい」というものになっているということである。 科目をそのようにしたものは,何か? <これまでにやってきた授業>である。 学生は,この科目の授業をこれまで受けてきて,《この科目は,大事なことが開始される科目でない》と判定する者になっているのである。 「教室の私語は人権問題」 『「教室の私語」論』 |