Up | 個の懲罰ができない社会/時代 | 作成: 2014-12-21 更新: 2014-12-30 |
実際,いまの社会/時代は,個人の事件が,その者が所属する組織・機関の責任になる社会/時代である。 そして,いまの社会/時代は,組織・機関が員を懲罰できない・憚られる社会/時代である。 懲罰に対しては,個が「人権」を楯にして争うのがスタイルになっている。 この争いは,懲罰した側にとって,ひどく面倒なプロセスになる。 コスト・パフォーマンス的に,ひどく不利なプロセスになる。 実際,法廷の争いになれば,人権侵害があったとなり,敗けることになる。, いまの社会/時代は,組織内懲罰が違法になる。 これまでは,「ダブル・スタンダード」の考え方がとられていた。 これが,常識/良識/智恵になっていた。 いまは,「ダブル・スタンダード」は,悪である。 常識・良識・智恵は,法を規準にした一貫したものへと,改めねばならない。 このように考えるのが,いまの社会/時代の正義である。 ──倫理を説く者は,この正義を説く者である。 こうして,学生の事件は,大学にとって,ひどく面倒な問題になる。 事件の処理は,ひどく面倒なプロセスになる。 大学は,自ずと,学生事件を防ぐ方法,懲罰を避ける方法を考えることになる。 実際に事件が起きたときは,懲罰を「指導」に代えるという方法になる。 ちなみに,「指導」で済ませない問題が起こったときは,どうするか? いま大学は,学生の懲戒処分の規程づくりに取り組んでいるところである。 しかし,教職員の懲戒処分が法廷闘争に持ち込まれると「違法」になって敗れるという事例があるように,この規程の実際運用は,大学にとって,荷の重いものになる。──というか,端的に不可能である。 繰り返すが,いまの社会/時代は,組織内懲罰が違法になる。 いまの社会/時代は,個の懲罰ができない・憚られる社会/時代である。 <常識・良識・智恵>を法に従わせようとすることは,奇態に進むことである。 法に従わせるとは,複雑系を単純系に押し込むという無理をすることだからである。 <常識・良識・智恵>は,複雑系に対応する方法であった。 これを退けて法遵守 (コンプライアンス) を択ぶのは,ただただ時代に流される体(てい) である。 それは,理知を自ら封じ込める体(てい) である。 いまの大学は,「コンプライアンス」社会づくりの加担者である。 そして「コンプライアンス」社会に苦しむ者である。 |