Up はじめに 作成: 2014-12-19
更新: 2014-12-19


    大学はいま,義務教育学校と同じく,「道徳」を授業することになっている。
    科目名は,「倫理・人権」である。
    1年生の必修科目である。

    この科目ができたのには,経緯・理由がある。
    学生は,その経緯・理由の上に,授業を受ける。

    科目の運用形態を決めるときは,授業が受講生全員において同条件であることを考える。
    また,授業コストを考える。
    そこで,授業は,《大教室ないし講堂に1学年の学生全員を集め,講師が講義をする》が形になる。


    この中の一コマで,講師が,前年度受講生の「倫理はウザイ」の感想を紹介する。
    講義は,この感想にリアクションする趣で,倫理の意義を説いていく。
    したがって,学生の感想を紹介したのは,つぎが趣旨である:
      《「倫理はウザイ」などと言うのは,倫理の意義を知らないからだ。
       倫理の意義を知れば,「倫理はウザイ」などとは言えなくなる。》

    講義は,本題に入るや,一方的な内容になる。
    聴く者を「倫理はウザイ」の思いにする内容を,またやってしまう。

    こうして,「倫理はウザイ」を取り上げる風は,格好だけである。
    倫理はウザイ」は,結局,主題にならない。


    倫理はウザイ」は,「この科目はウザイ」でもある。
    倫理はウザイ」「この科目はウザイ」は,「倫理・人権」科目の主題にならない。

    一方,この科目の最も肝心な主題となるものは,「倫理はウザイ」「この科目はウザイ」である。
    なぜなら,この授業を受けることを強いられる者は,「倫理はウザイ」「この科目はウザイ」となる者だからである。

    倫理はウザイ」「この科目はウザイ」が主題にならないのは,なぜか?
    単純に,これを最も肝心な主題と心得る者が,講師の中にいないということである。


    そこで,本論考を以て,「倫理はウザイ」「この科目はウザイ」を取り上げることにした。
    尤も,特別な論をやるわけではない。
    ありふれた論をやる。
    即ち,「文学」をやる。
    文学は,倫理の対立軸であり,倫理の解毒剤である。
    本論考は,文学の「倫理はウザイ」を,単純に繰り返す。

    この繰り返しに意味はあるのか?
    いまの大学に,文学は無くなった。
    学生は,文学を知らない。
    彼らは,倫理を解毒する仕方を知らない。
    よって,いま文学を改めて現すことは,意味がある。