Up 「評価」を思考停止して「評価」を唱える 作成: 2007-06-28
更新: 2007-06-28


    「評価」を実践的によく知る者は,課題になっている「評価」に対しては,それの分限と実現コストを併せて考える。
    そして,評価の分限と実現コストがわかるとき,評価主義は成り立つものではないということがわかる。

    逆に,「評価」をリアルに思考できない者 (すなわち,素人) が,評価主義を唱える。

      ことばは便利だ。「評価」のことばを口に出せば,「それはある」と感じてしまう。 ──内容がなくても「それはある」,内容は自ずと埋まる,というわけだ。 著しくは,内容について思考停止している自分に気づかない。


    評価主義を唱える者は,評価する役には就かない。 「評価」の実施を決め,評価する役をつくり,それを他に投げる。
    役を投げ与えられた者は,「評価」の内容づくりに取りかかるが,できる技ではないことがすぐにわかってくる。そこで,お体裁の「評価」を実施する。

    このような「評価」は,金の無駄遣いというだけでは終わらない。
    「評価」の対象にされた者は,それが「無意味な評価」なので,調子を狂わされ,おかしくなる。


    なぜこんなしょーもないことが現実になるのか?」と不思議に思うところだが,これの示すところはつぎのこと:

      「複雑系としての世界」(「個の多様性」はこれの含意の一つ) という概念は持たれにくい。 ──理由:専門的な内容になるから。
      この概念を持てない者は,世界を単純化して考える。この荒唐無稽をやっている自分に気づかない。

    政治の場においても,この事情は同じ。
    ──それどころか,政治の場こそこうなりやすい。