Up | 「自然保護」イデオロギー : 要旨 | 作成: 2015-06-18 更新: 2015-06-18 |
「自然破壊」の当事者は,商業主義である。 元は,末端消費者の飽くなき欲望である。 草木の「絶滅危惧種」や「在来種駆逐の脅威となる外来種」の場合だと,草木愛好者の飽くなき欲望が元である。 草木を愛好することは,善いこととされている。 草木愛好者は,善い人である。 したがって,草木愛好者を消費者にして商売する人も,善い人である。 「自然破壊」に悪い者はいない。 さて,ここに「自然保護者」を自任する者たちがいる。 正義として「自然保護」を立て,自分を<正義の者>になす者たちである。 彼らは,「自然破壊」を悪として立てる。 「悪者」を作り出す。 一般に,「正義」は,悪者のいないところに「悪者」を創作する。 これは,構造として「無理矢理」である。 「無理矢理」の結果は,「迷惑千万」である。 正義を自任する者は,「迷惑千万」を行う者である。 「自然保護者」は,自然の囲い込みをやり出す。 「自分たちにどんな優位を立て,このようなことをやっているのだ」と返したいところだが,何せ彼らは自分を正義にしている。 自分たちのやっていることは,正しいのである。 自分たちに逆らう者は,愚であり悪である。 こうして,自然は,道徳が支配する場になる。 ──《野山は,善い人が立ち入るところである。悪い者は立ち入ってはならない。》 ここで彼らは,自分の道徳のストーリー仕立ての「自然」を創作している。 彼らには,自然がわかっていない。 「自然破壊」も,自然のうちである。 「自然保護」の「自然」は,自然ではない。 自然にとって,自然の外に己を措定する「自然保護者」は,笑止千万である。 自然にとって,「自然保護」は笑止千万である。 人が愛でたく思う「自然」は,自然ではない。 自然は,人が愛でたいとは思えないものである。 恐ろしくて気持ち悪いものである。 恐ろしくて気持ち悪いものには,畏敬 (リスペクト) で対する。 畏敬するのみであるのが,自然である。 |