Up 量の幻想性 作成: 2025-08-29
更新: 2025-08-29


    「量」の論は,「量の幻想性」の捉えが,いちばんの要点になる。

    ひとは,量を実在のように思っている。
    しかし例えば「速度」。
    「速度」を「何の速度」と使うように,存在しているのは走っている自動車やなんかである。
    走っている自動車やなんかから離れて,「速度」が存在しているわけではない。

    「時間」や「距離」も同じ:
      「時間」──「何にかかる時間」
      「距離」──「どこからどこまでの距離」

    ひとが量を実在のように思うのは,物理学の感化ということになる。
    ひとは, 「関係の実体化」という科学の方法論を知らないので,科学が実体として仮構するもの (実体概念) を,そのまま実在と受け取ってしまうのである。


    「時間とは何か」では,「時計が時間をつくる」の言い方をした。
    これを聞く者は,たいてい,「これは逆で,時間があるから時計がある」と思う。
    しかし,逆立ちしているのは「時間があるから時計がある」の方である。

    一般に,幻想を実体化すると,逆立ちした物言いになる。
    そしてひとは,幻想を実体化するものなので,逆立ちした物言いが常識になる。


    自然は,「時間」という論理を成立させる。
    これは,自然には時間が存在する,ということではない。
    これは,自然のポテンシャルに「時計が時間をつくる」がある,ということである。