Up | 「アイヌ語地名」とは何か | 作成: 2024-11-22 更新: 2024-11-22 |
なぜつくったのか? 行政は,戸籍簿や土地台帳や地図が要る。 これらをつくるには,その前に地名が要る。 役人は,地名づくりに「アイヌの地名」を用いることにした。 このとき役人にはつぎの思い込みがあった:
役人は,アイヌに「ここを何と呼んでいる?」と問う。 アイヌの答えは,つぎのような感じになる:
「河口原」 「蕗が群生する処」 その者やその者が属する集団 (数戸規模) が,生活の用足しの中で使っていることばである。 あるいはその者が,何か答えてやらねばと思い,その場の思いつきで言ったのかも知れない。 しかし役人は,これを「アイヌの地名」と受け取る。 そして,地名に採用する。 それから時が経ち,アイヌ語地名のアイヌ語の意味を知りたいと思う者が現れて,調べ始める。 調べる方法は: しかし,アイヌ語表現の推理は,人によって違ってくる。 現地調査は,アイヌ語表現と現地の模様の符合を当てにはできない。 植生は変化し,地形も変化するからである。 「古老」の話も,ほどほどに受け取るものである。 「古老」の意味は,「個人的な記憶が遡る時間が,若輩より長い」である。 しかし長いと言っても,せいぜい50年である。 彼らの言う「昔はこうだった」は,「アイヌの伝統」ではない。 彼らの言う「この場所はこう呼んだ」は,「アイヌの地名」ではない。 「アイヌの地名」というものは無い。 「アイヌの地名」は,そもそもできようが無いのである。 アイヌは,つぎが生活の形である:
狩猟採集の生業は,こうでなければ成立しないからである。 そしてその小集団は,非定住である。 狩猟採集の生活環境は,変化するからである。 環境が悪くなったら,よい場所を求めて移動することになる。 こういうわけで,「アイヌの地名」は,できようがない。
近くに和人経営の<場所> (運上屋) があって,そこへの通い務めを兼業にしているのである。 その集落は,いまのことばで言えば「都市化」である。 アイヌ語地名のアイヌ語解釈は,定まらない。 解釈を定めるものが存在しないからである。 翻って,アイヌ語地名研究は,「アイヌ語地名のアイヌ語解釈を定める」を目的にしたら,成り立たないものである。 では,アイヌ語地名研究は,どんな研究として成立するものか。 それは,「アイヌの歴史」の研究である。 アイヌ語地名は,東北地方にもある。 その東北地方は,さらに西へ連続している。 それは,『日本書紀』『続日本紀』の中に「蝦夷」のことばで出てくる。 アイヌ語は,ユーラシア大陸の中までは辿れない。 したがって,樺太・千島のアイヌが,アイヌの辺境進出の終端ということになる。 アイヌ語地名は,「蝦夷」とアイヌの連続性を示す。 したがって,アイヌ語地名研究は,「蝦夷」とアイヌの連続性を探る研究になる。 これが,アイヌ語地名研究のいちばんの意義 (貢献) である。 一方,この研究は,これから先の発展があるようには見えない。 時代の流れの中で,昔の名残は急速度で無くなっていくからである。 実際,金田一京助「北奥地名考」(1932) を見ると,アイヌ語地名の解釈は,ほぼここに極まっている観がある。 明治に入ってからアイヌ語は消える一方であったから,アイヌ語地名の解釈としてやれることは,金田一の世代迄で尽きてしまうことになったのである。
分野によっては,積み重ねが学術の劣化にしかならないものもある。
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